沖縄の県民投票実施に疑問
安易に賛否答えられず
失敗だった平成8年の投票
玉城デニー沖縄県知事は11月27日に名護市辺野古の新基地建設の賛否を問う県民投票を来年2月14日告示、同24日投開票と発表した。
「県民が意思を示す非常に重要な機会であり、意義は大きい。一人でも多くの人に参加していただけるよう、投票を呼び掛けたい」(沖縄タイムス+プラス11月27日)ということである。
今回の県民投票にはそれを実施する市町村にかなりの温度差がある。
例えば、与那原町や、中城村、北中城村議会は12月10日の定例会本会議で、県民投票の投票事務に必要な補正予算案をいずれも全会一致で可決したが、逆に、宮古島市議会の総務財政委員会は10日に県民投票事務の補正予算を削除する予算修正案を賛成多数で可決したし、肝心の宜野湾市の市議会も4日に与党が提出した県民投票に反対する意見書を賛成多数で可決した。石垣市議会にも同様に反対している。
これらの動向とともに私が不思議に思うことは、平成8年(1996年)に行われた県民投票の内容や結果がほとんど語られないことである。
平成7年(95年)に起きた米兵による少女暴行事件を契機に沖縄県民の反米軍基地意識は一気に炎上し、ちょうどその頃に行われていた沖縄県知事による代理署名拒否の裁判で沖縄県側が最高裁で敗訴したこともあって、あの頃こそまさに「オール沖縄」であった。
沖縄県民の怒りに圧倒された日米政府が県民感情を抑えるためにかなりの譲歩を提案してきたというのが当時の雰囲気である。あの頃イニシアティブは確かに沖縄県側にあったと言えよう。
少女をレイプした犯人が特定できているにもかかわらず沖縄県警が犯人の身柄を拘束して取り調べを行うことができないというニュースに私も大きな怒りを感じたことを今でもはっきりと覚えている。
その時の県民の怒りはいわば「人権」の問題であり、日米地位協定の問題であった。それが次第に米軍基地返還の問題へとすり替えられていく。その最大の焦点が現在の辺野古への移設問題である。私は当時の大田昌秀沖縄県知事の責任は大きいと考えている。
しかし、それはともかく、当時の県民の怒りは相当なものであった。
その沖縄県民の怒りを全国に示そうと実施されたのが「米軍基地の整理縮小に反対か賛成か」という県民投票である。
当初の予想は、投票率は80%を超え、当然、「米軍基地の整理縮小」に賛成する票が90%を超えるだろうというものであった。それをもって日米政府にさらなる米軍基地の整理縮小を突き付けるという目論見(もくろみ)である。
しかし、ふたを開けてみると、当日が雨模様であったこともあって、投票率はまさかの59・53%と6割を割ってしまったのである。米軍基地の整理縮小に賛成する票も89%と9割に達することができなかった。
翌日9月9日の新聞記事が興味深い。
朝日新聞は、「基地縮小『賛成』が89%」を大見出しにし、「『沖縄県民投票』有権者の過半数」「投票率は59・53% 大田知事信任得る」「相違実証した賛成票」という見出しが目立つ記事で、掲載されている大田知事の写真も自信にあふれたような表情であった。
それに対して同日の産経新聞は、「有権者の半数強にとどまる」という大見出しで、「基地縮小賛成票は89%」「沖縄県民投票率は59・53%」「低投票率『大田流』に反発も」という見出しである。
同じ「事実」を記述しても「印象」としては全く正反対の記事になっているところが極めて興味深く、実は私の大学の講義ではその二つの記事をその例として使わせてもらっている。
それでは、どちらがより客観的であったのか。
県民投票が行われる前の予測と実施側の目論見から考えると、産経新聞の方がより客観的だと言わざるを得ない。平成8年の沖縄県民投票は明らかに失敗であった。
当時の県民投票については、その他の問題もあった。例えば投票用紙には「日米地位協定の見直しと、県内の米軍基地の整理縮小について、賛成の人は賛成欄に〇を、反対の人は反対欄に〇を、記入してください」と書いてある。
一度に複数の問いがある質問は社会調査で不可である。例えば、日米地位協定の見直しには賛成だが米軍基地の整理縮小には反対という人は答えようがない。米軍基地に反対でも賛成でも〇を付けるというのも特に高齢者には分かりにくかったと思う。
そいうことの反省もあって、今回行われようとする県民投票では単純な問いが用意されているようである。
しかし、平成8年と現在では県民意識は大きく変化している。
確かに、現在の日本政府のやり方が強硬過ぎて傲慢(ごうまん)だと思っている沖縄県民は辺野古への移設に賛成反対を問わず少なくない。何度も書いているが、それは県民の「感情」の問題であり、良しあしの問題ではない。一方で沖縄県民は、反対か賛成かと安易に答えるような単純なものではないこともよく理解している。
私には県民投票を行う意義がどうしても理解できない。
(みやぎ・よしひこ)