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ブッシュ当選とクエール候補の兵役忌避問題①
<前の記事 国際共産主義の総本山、ソ連邦の終焉は、1992年12月25日に正式に確定した。その年の8月に発生したソ連共産党保守派のクーデターが失敗に終わると、ゴルバチョフ大統領(1990年3月、憲法改正により大統領制が…
ニカラグア自由戦士を援助—米議会を動かす②
こうして、文鮮明先生のダンベリー刑務所での一つの決心がとてつもない結果をもたらした。世論の支持を背景に力を得たレーガン大統領は、一つ二つと大胆なコントラ援助計画を拡大していった(1986年には軍事援助7000万ドルを含…
ニカラグア自由戦士を援助—米議会を動かす①
ボルシュグラーブ編集局長は私からの電話を受けたその日に、その場でこの社説を書いてしまったと言った。 この文章がよほど名文だったのか、アメリカの女流学者で国連大使も務めたジーン・カークパトリック女史が新聞社に電話をかけ…
「米議会ができないなら、われわれ自由人がやろう!」②
また、多くの議員がニカラグアのオルテガ大統領が突然訪ソし、2億ドルの援助を求めたことに驚きを隠していない。彼らは「もしわれわれがこのことを事前に知っていたなら、同援助案に賛成票を投じたのに」と私に言った。偉大なる米国民…
「米議会ができないなら、われわれ自由人がやろう!」①
米紙「OP」(other paperの略で、ワシントン・ポストを揶揄(やゆ)した言い方)の論説担当責任者で、リベラルで鳴らすメグ・グリーンフィールド女史はかつて、「ベトナム戦争後の米国の考え方の核心」は次のようなものだ…
ワシントン市民の度肝を抜いた1面特別社説②
私はそれ以上、一言も言わなかった。私はアルノー・ド・ボルシュグラーブの人となりをよく知っているからである。 第一に、彼は反共闘士である。 第二に、彼は天才的言論人である。 第三に、彼は週刊誌「ニューズウィーク」の…
ワシントン市民の度肝を抜いた1面特別社説①
私はダンベリーを出ると、慌てて公衆電話の前で車を止めた。私は急いでワシントン・タイムズ社に電話をかけた。その日はよりによって日曜日である。ところが、幸いにも編集局長アルノー・ド・ボルシュグラープ氏が自分の事務室に来てい…
中米諸国にドミノ式共産化の危機②
ソ連はキューバに対してと同様に、ニカラグアにも数億ドルの軍事援助を降り注ぎ、中米の軍事要塞構築に余念がなかった。ところが米議会は、自由回復のために闘争するニカラグアの自由戦士コントラに対して、軍事援助でもない人道的援助…
中米諸国にドミノ式共産化の危機①
1985年5月のことである。その当時、文鮮明先生はアメリカ政府の一連の宗教弾圧政策により、無実の刑でダンベリー連邦刑務所(コネティカット州所在)に収監中であった。 5月5日、私はいつものように文先生の令夫人、韓(ハン…
ソ連軍のアフガニスタン撤退に貢献②
ソ連軍のアフガン撤退は、アメリカにとってベトナム戦争敗北以後、最初の慶事であった。ここでソ連正規軍が自由ゲリラ軍に敗北したので、世界中で共産主義支配の構図が変化し始めた。各地で自由ゲリラ軍が攻勢に出て、共産政府軍が追わ…
ソ連軍のアフガニスタン撤退に貢献①
レーガン大統領はこの建議に全面的に呼応した。 アフガニスタンからソ連正規軍が撤退するようになった理由はどこにあったのか? それはムジャヒディン・ゲリラが放つスティンガー対空誘導弾によって、ソ連のヘリコブターとミグ戦闘…
自由のための「レーガン・ドクトリン」
<前の記事 1970年代後半から80年代初頭にかけて、全世界の五大洋六大洲(六大陸)では、共産勢力の侵略の炎が直接間接に燃え盛っていた。 ソ連は容共的なカーター政権時代に、15万人もの正規軍をアフガニスタンに投入して…
アメリカ大統領が一番最初に読む新聞②
ところで、先に書いたゴルバチョフ議会演説が霧散した後、早朝3時に今度は2台のリムジンが「Hot Off The Press」新聞を待つようになった。1台は勿論ホワイトハウスのリムジンであり、もう1台は駐米ソ連大使館のリ…
アメリカ大統領が一番最初に読む新聞①
随分以前から、ワシントン・タイムズは既にホワイトハウスで特別待遇を受ける新聞になっていた。 午前3時にその日の新聞が輸転機から落ちると、印刷所の外にはホワイトハウスのリムジンが待っており、最初の400部を積んでホワイ…
ゴルバチョフの米議会演説を阻止
これまで見てきたように、ワシントン・タイムズは“言論界の革命児”として、歴史上のいかなる新聞や言論よりもアメリカの歴史、世界の歴史を変えてしまった。共産主義解放に寄与したSDI政策支援については既に詳述したが、その他に…
アメリカ屈指の三大日刊紙の一つに成長②
この六大紙のインナーサークルに、誕生して5年にもならない販売部数20万部のワシントン・タイムズが食い込んだのはなぜだろうか? それはメディアのリベラルな風潮に真っ向から挑戦し、反共・保守の旗幟(きし)を鮮明にした“言論…
アメリカ屈指の三大日刊紙の一つに成長①
1988年にアメリカのAP通信社が、全米の2000社近い日刊紙の調査をしたことがあった。その結果、驚いたことにワシントン・タイムズが、アメリカで最も多く他の新聞に引用された三大新聞の一つであることが判明した。1位がニュ…
「もしもワシントン・タイムズがなかったら」
ここで、米ソ冷戦の当事者だけでなく、歴史家の学問的な考察にも目を向けてみよう。ロシア史・ソ連史研究で著名なマーティン・メイリア教授(カリフォルニア大学バークレイ校)の以下の考察には全面的に同意できる。 「ソヴィエトに…
「SDIがソ連の軍拡路線を放棄させた」②
「米国と旧ソ連両国政府の80年代の外交、防衛関連首脳が参加したこの会議では、ソ連に従来の米国との軍事対決の政策を変えさせ、冷戦の終結を実現させたのは何か、という疑問が中心課題となった。会議の中でベススメルトヌイフ氏は『…
「SDIがソ連の軍拡路線を放棄させた」①
ソ連はSDIを理止しようと躍起になった。1960、70年代を通じて一貫して軍拡に力を注いできたソ連は、既に述べたように、アメリカに対して核戦力で圧倒的な優位に立った。しかし1980年代に入ってからは、ソ連経済に疲弊(ひ…
防御重視の平和的戦略へ大転換②
これらの討議の過程で、私は次第に強く次のことを確信するに至った。すなわち、(ソ連など)他の国々や人々に対処するに当たり、(報復攻撃によって)彼らの存在を脅かすこと以上の高い立場に、人間精神が立ち得るに違いないということ…
防御重視の平和的戦略へ大転換①
レーガン大統領はこの世論の新しい潮流に乗って、1983年3月23日、テレビ放送を通じて演説し、ハイ・フロンティア構想を「SDI(戦略防衛構想)」に衣替えしたうえで、正式にアメリカの国防政策として採択すると宜言した。 …
救国のため敢然と立ち上がったワシントン・タイムズ
この様子を見て、文鮮明先生は決断された。 「ワシントン・タイムズを作った目的は、まさしくこのような時のためである。ワシントン・タイムズは立ち上がって全力投球せよ!」と命じられたのである。 この命令に呼応して、当然の…


