交渉の重責を担った外務大臣、愛知揆一氏の矜持


沖縄の日本復帰50年に思う

トップリーダーに必要な言動とウィット感

交渉の重責を担った外務大臣、愛知揆一氏の矜持

愛知揆一(きいち)外務大臣(ウイキペディアより)

 1972年、沖縄は祖国日本への復帰が実現し、今年は50年目を迎える。復帰一つを見ても、国家・民族の近未来を左右する節目に決断をするトップリーダーの矜持(きょうじ)と肝の据わった言動とウィット感が必要だと実感する。この欄を借りて筆者が心動かされた実例をいくつか紹介したい。

 沖縄県金武町から恩納村への県道104号線を越える米軍の実弾演習が実施されていた。それに伴う流弾事故も発生していたので、県道越えの実弾演習地を移転させることに自民党県連は喫緊の課題として全国的に運動を展開した。筆者は、県連幹事長、政調会長、会長の職務を歴任していたので、全国大会など機会あるごとに県議をグループに分けて本土の自民党県議団に泡盛持参であいさつに上がり、実弾演習だけでも全国で分散受け入れしてもらえないか懇願した。

 宮城県選出の衆議院議長の伊藤宗一郎先生は古武士の貫禄で、自衛隊の王城寺原演習場での受け入れを説得するに当たり、日本の防衛でお世話になっている沖縄の仲間の声や痛みを分かち合えないなら俺は議長も国会議員も辞めると東北武士の鬼気迫る説得で選挙区の了解を得た。

交渉の重責を担った外務大臣、愛知揆一氏の矜持

ホワイトハウスで佐藤総理(写真左から3人め)と愛知外務大臣(同5人め)を迎えたニクソン大統領(同4人め)

 他にも多くの逸話はあるが、極め付きの武士とウィットは、1969年の沖縄返還交渉で佐藤栄作総理と米国との交渉に心魂を傾けていた愛知揆一(きいち)外務大臣とニクソン大統領とのエピソードだ。

 青議連(自民党全国青年議員連盟)の幹部で、四十年余の交流のある仙台市出身で9期も県議を務めた中沢幸男盟友からの逸話を紹介したい。

 愛知外務大臣は、有名な酒豪でありヘビースモーカーだったが、重要事項に処する時はピタッと禁酒し、事が成就した時に一服するのが有名であった。

 ご自身の選挙でも公示日前から禁煙に入り、当選確定が出てからマッチでハイライトに火を付けた。

 外務大臣で沖縄返還交渉の重責を担った時も、「沖縄が返るまではタバコをやめる」と宣言し、渡米した。ホワイトハウスで佐藤総理、愛知外務大臣を迎えたニクソン大統領がわざわざ日本から取り寄せたハイライトにマッチで点火した。「愛知大臣、今日からタバコOKですよ。『沖縄返還OKです』」とニクソン大統領に笑顔で言わしめた歴史的瞬間だった。愛知大臣のタバコの処し方を知っている人々は感涙した。

 愛知先生は、盟友中沢秘書に、「あの時のハイライトは人生最高においしかった」と感慨深げに語っていたという。復帰50年を迎える記念の時候に、中沢同志の深い思いと貴重な写真を提供してもらい、柄にもなく感涙にむせんだ。

 仙台の青葉城公園の深い緑に守られた愛知先生の銅像が優しい表情ながら凛とした風情で建立されている。コロナ禍が落ち着いたら、久しぶりに仙台を訪れ、中沢同志と仙台名物の数々を味わいつつ、小生の十八番「青葉城恋唄」を歌い、愛知先生に一升瓶の盃で献杯の誓いを申し上げる日を心待ちにしている。

 なお、愛知揆一先生の娘婿、和男先生は一般社団法人日本台湾平和基金会の会長を務めている。小生は同理事長として、大東亜戦争で日本兵として散華(さんげ)された台湾の英霊に誠を捧げる慰霊塔を建立し、毎年慰霊祭を行っている。その縁(えにし)も天の計らいか。

 OKINAWA政治大学名誉教授 西田 健次郎