ユダヤ人に寛容だったイスラム世界
獨協大学教授 佐藤 唯行
オスマン帝国が難民厚遇
有能かつ脅威とならない存在
欧米先進国のキリスト教徒の間でユダヤ人への敵意が薄れた今日、反ユダヤ主義の主戦場は中東・北アフリカのイスラム世界へ移ってしまった。ところが中近世に遡(さかのぼ)れば状況は逆転する。イスラム世界の方がユダヤ人にとり居心地の良い場所だったのだ。600年間にわたり中東を支配したオスマン・トルコ帝国はその代表だ。その厚遇ぶりは15世紀末、スペイン・ポルトガルから16万人のユダヤ人が追放された時、オスマン帝国皇帝バヤジット2世が発した布告からも明らかだ。
「領内に辿(たど)り着いたユダヤ難民を追い返してはならぬ。彼らを温かく歓迎せよ」。多くの国々がユダヤ難民に門戸を閉ざしていた時、オスマン帝国はこの布告に従って快く彼らを受け入れたのであった。
兵器産業創設で恩返し
入国を許されたユダヤ人が行った最大の恩返しが兵器産業の創設だった。オスマン帝国軍の装備に火砲が導入されたのは、イベリア半島から逃れ来たユダヤ難民の到着とほぼ時を同じくしていることは軍事史上の事実である。この他に兵站(へいたん)、外交、財政の諸分野で16世紀オスマン帝国はユダヤ人に大きく依存していたのだ。もともと騎馬の軍事集団だったトルコ人は、自分たちが持たぬ優れた能力を持つ亡命ユダヤ人を厚遇・重用したのだ。
彼らの中には宰相に登用され、公爵に叙せられる者も現れたのだ。特に16世紀後半は亡命ユダヤ系の黄金時代であり、オスマン帝国の対外政策立案はユダヤの側近たちの手に委ねられていたのだ。彼らは同胞を迫害するキリスト教国家に対し、懲罰的軍事行動をたびたび行ったが、帝国の国益と整合性を持つ限りにおいて、オスマン皇帝はこれを許したのであった。ベネチア領キプロスの征服はその代表例と言えよう。
厚遇はオスマン帝国にとどまらず、それに先立つイスラム教の世界帝国アッバース朝においても確認できる。厚遇された理由の第一はキリスト教と比べ、イスラム教に内在する反ユダヤ主義が弱かったからだ。
イスラム教徒から見れば、ユダヤ人は教祖ムハンマドの教えを受け入れなかったという「罪」は犯したものの、ムハンマドを十字架に掛けて殺したわけではなかったからだ。イスラム教の聖典コーランの中にはユダヤ人に対する否定的な記述もあるが、「悪魔の子」呼ばわりしたキリスト教とは敵意のレベルが違うのだ。何よりもキリスト教会を通じての信徒に対する2000年続く敵意のすり込みが、イスラム教のモスクではなされていなかった点は重要だ。
イスラム教徒にとりユダヤ人は軍事的脅威とならなかったという説明も有効だ。オスマン帝国領には数多くのキリスト教徒が住んでいたが、彼らの中にはオスマン帝国と敵対するビザンツ帝国や強大な海軍力を持つベネチア共和国とよしみを通じる者もいたのだ。こうした後ろ盾を持たぬユダヤ人はオスマン帝国にとり脅威とは見なされなかったのだ。つまり「祖国なき民」ユダヤ人はイスラム教国家に「敵対しない、できない」存在と見なされていたのだ。イスラム教国家にとっては安心できる存在だったわけである。
7世紀のイスラム教成立以来、イスラム世界のユダヤ人は「啓典の民」という比較的恵まれた地位を与えられてきた。人頭税の支払いを条件に信仰や居住の自由が保障されたのである。ゲットーに閉じ込められた西洋中近世とは大違いなのだ。
イスラム世界におけるユダヤ教徒とイスラム教徒の共生関係が崩壊するのは1948年のイスラエル建国によってだ。「イスラムの聖地に勝手にユダヤ人国家を樹立した」という理由で激しいユダヤ人憎悪が始まるのだ。
急接近する湾岸産油国
しかし70年続いた敵対関係にも変化が生まれている。スンニ派湾岸産油国がイスラエルに急接近しているのだ。背景には共通の敵、シーア派の大国、イランの脅威がある。民衆レベルではユダヤ・イスラエルへの敵意は依然として強いが、湾岸産油国のエリートたちの意識は変わりつつある。将来における和解へとつながることを期待したい。
(さとう・ただゆき)