自民総裁選に見る「二つの民意」

文明論考家 元駐バチカン大使 上野 景文

正統性を有する議員票
党員票に直接民主制の色彩

上野 景文

文明論考家 元駐バチカン大使 上野 景文

 岸田文雄総裁を選出した自民党総裁選挙からはやひと月。世間の関心は総選挙に移り、総裁選は「遠い過去」のことのように映る。が、総裁選をめぐる一連の議論の中には見過ごせない点があった。

 その問題は、岸田氏選出直後に党大会会場から出て来た石破茂氏が報道陣に向けて発したひと言にあった。氏は、今回の選挙結果と民意の間には「ギャップ」がある旨言い放った。今回の結果は民意を(十分に)反映したものではないとの口吻(こうふん)であり、行間からは、新総裁の正統性への疑念が感じられた。

 テレビ出演を繰り返すこの人の発言は、しばしば、具体論を避け、「国民のため」「選挙民のため」と言った耳当たりの良い一般論に終始する。野党の議員がまま示す発想に近い。

議員介し示される民意

 もっとも、総裁選をめぐるテレビ番組を見ていると、石破氏と同様の見方を示す人は少なくなかった。かれらの見方には、「党員票は民意を反映するが、議員票は民意を反映するものではない」との前提・思い込みがあるようだ。が、そうした見方は、政治哲学の観点からも、制度論の観点からも、「的外れ」と言わざるを得ない。自民党総裁選は、一政党の党首選挙のレベルを超え、首相選出に繋(つな)がる「重み」を有するものであることから、この世間の思い込みを正しておきたい。

 議員票が「民意」を反映するものでないとすれば、国会における首班指名はもとより、国会での議決・決定は、正統性を欠くものとなってしまう。そんなバカな話はない。議院内閣制をとる日本のような国では、民意は議員を介して示される。それが、憲法が示す間接民主制である。それを「民意A」と呼ぶことにする。石破氏ほか、党員票にこそ正義があると見做(みな)す人たちは、この「民意A」を否定ないし軽視している。

 これに対し、党員票が示す民意は、議員をバイパスして草の根の意見を問うものであることから、直接民主制の色彩を帯びる。これを「民意B」と呼ぼう。これもまた、立派な民意である。ただ、日本国憲法は、直接民主制の哲学は採用していない。

 言うまでもなく、「民意A」も「民意B」も立派な民意だ。ただ、哲学を異にしており、A・B間に優劣はない。純理論的にはどちらか一つを採用すればよく、両者を「混ぜる」ことは、酒とワインを混ぜるようなもので、意味をなさない。特に議院内閣制をとっている国において、政権党が党首を選ぶ場合(野党の場合は事情は若干異なるが)、議員だけで選出すること(「民意A」でゆくこと)は理にかなっている。例えば豪州では、自由党(保守党)の党首選出は議員だけで行っている。それで十分だ。

 とはいえ、制度論だけで全てを判断するわけにはゆかない。実体論も大切だ。党員拡大を目指す自民党が彼らに「参加の機会」を与えたいという事情は理解できる。とはいえ、110万人程度の党員の意思を問う現行方式は、「民意B」と胸を張って言える規模ではなく、如何(いか)にも中途半端だ。他方、議員の方は二千万人内外の選挙民に信託されており、彼ら(議員票)が示す「民意A」は、胸を張れるものだ。

 実体論的に言えば、議員票が派閥間力学に左右されるという点も避けるわけにはゆかない。派閥間の綱引きは「民意A」を歪(ゆが)め、ひいては民主主義を歪める、との批判だ。本当にそうなのだろうか? 派閥を政党内の「ミニ政党」と位置付けるなら、派閥間抗争は「ミニ政党間の綱引き」と言うべきものであり、「政党間の綱引き」と同様、正当な政治的営為と言える。権力闘争は民主主義の一要素なのだから。

危うさはらむ首相公選

 実体論の視点からもう一点。かつて、首相公選制をとの機運が高まったことがあったが、人気は高いが日本の舵(かじ)取りを任せるわけにはゆかない人物が選出されかねないということで、機運はしぼんでしまった。人気に偏する恐れのある「民意B」はある種の危うさをはらむとの認識が広がったわけだ。因(ちな)みに、大統領制の国の方が議院内閣制の国に比し、概して不安定性が高いとの見方があるが、肯(うなず)けるものがある。

 話を原点に戻す。総裁選の前後にまま語られた「民意とのギャップ」という議論が、理論上の根拠が薄いこと、ご理解いただけたであろうか。それにしても、石破氏のようなプロの政治家が、議員票の有する正統性を軽視する発言をしたことにはがっかりさせられた。

(10月28日記)

(うえの・かげふみ)