立共共闘を薦め共産の闊歩に手を貸す朝日こそ「ネオ55年体制」の元凶
与党より国民に脅威
共産党の機関紙「しんぶん赤旗」(ネット版)を見ると、立憲民主党の「統一候補」が当落にかかわらず地元の共産党委員会に次々と「応援御礼」に訪れている。選挙後の慣例とはいえ、共産の“立憲抱き付き”を象徴する風景だ。7日付1面トップには「野党共闘/立民議員“本気かどうかが分岐”」とある。本気で共産党と組んだ立民候補は勝利し、そうでない候補が落ちたと言いたいらしい。
立共共闘は「立憲共産党」との批判を被り、両党そろって獲得議席も得票数・率も完全敗北という厳しい審判を受けたはずなのに、どこ吹く風だ。負けても勝ったと言い張る共産党「大本営」。その赤旗日曜版(7日付)に元朝日政治部次長の脇正太郎氏が「野党共闘は与党に脅威を与えた」と賛辞を送っているから何をか言わんや、だ。
そもそも立共共闘が脅威を与えたのは国民に対してだ。日米同盟を否定する共産が政権に関与すれば、明日の日本はどうなるのか。労働界とりわけ民間労組はこれまで共産系と熾烈(しれつ)に戦ってきた。共産労組に潰(つぶ)された会社が山ほどあるからだ。「立共」政権が誕生すれば、その努力が水泡に帰す。トヨタ労組が立憲から組織候補を下ろしたのはその危惧を象徴している。
努力「中抜き」は朝日
これは朝日にとってどうでもいいことか。元政治部長で編集委員の曽我豪氏は朝日7日付「日曜に想(おも)う」で「疑似政権交代と二大政党制の闘い」と、立憲の出直しに期待を込めている。どう思おうと勝手だが、国民から浮いた独善には辟易(へきえき)させられる。
曽我氏は、昭和の時代には自民政権が行き詰まると、「別の政策の旗と首相候補の顔を持つ派閥が政権をつくり」疑似政権交代をして自民政権を維持した。これを令和の今も続けているのは「釈然としない。平成の30年に及ぶ政治改革の努力まで中抜きにされて良いものだろうか」と言う。
釈然としないのはこういう捉え方だ。昭和の自民の疑似政権交代は政権交代可能な政党が存在しなかったことが大きな要因だ。当時の最大野党は反日米安保・反自衛隊の社会党で、親ソ派や親中派、親北朝鮮派、極左派等々の共産主義グループが闊歩(かっぽ)し、とても政権を任せられなかった。
平成に入って東西冷戦が終焉(しゅうえん)し「もう共産主義もあるまい」との見通しから政治改革に着手された。その二大目標は曽我氏が言うように、「強力かつ迅速な意思決定を志し、改革の足を止めかねない分配調整型の政治に代わる政治主導」と、「疑似ではない政権交代の定着を目指し、時代に沿う施策を競い合う政策中心の政治への転換を狙った二大政党制」で、そこに共産が加わる余地はなかった。
前者は紆余(うよ)曲折の末に第2次安倍晋三政権が体現したが、それを朝日は「一強」とのレッテルを貼って潰しにかかった。その上、「多様な意見を聞け」と時計の針を逆回りさせる分散調整型を唱えた。後者については朝日が「政策抜きプラス共産」共闘を後押しし、昭和と同様に政権交代の受け皿のない事態に陥れた。政治改革の努力を「中抜き」したのは朝日自身だ。そのことに頬かむりし、共産のキの字も書かずに二大政党制と言われても説得力はない。
再出発は共産抜きで
朝日2日付社説は「立憲の出直しには、徹底した敗因の分析が欠かせない」というから、どんな分析と思いきや、5日付社説「立憲再出発 枝野氏頼み脱し地力を」は「議員個人や地方組織が、地域における日常活動を抜本的に強化することが、有権者に選ばれる政党になるうえでカギを握る」と、政策抜きで昭和のドブ板選挙を提唱しているから呆(あき)れる。
再出発を言うなら「枝野氏抜き」ではなく「共産抜き」のはずだ。朝日2日付で政治学者(東京大学教授)の境家史郎氏が「日本政治は『ネオ55年体制』に入った」と述べているが、共産の闊歩に手を貸す朝日こそネオ55年体制の元凶と言わざるを得ない。
(増 記代司)