エリートを驚愕させた「キッス」

アメリカ保守論壇 M・ティーセン

国民の間で熱狂的な支持
公演で退役軍人らを支援

マーク・ティーセン

 

 告白したいことがある。私はロックバンド、キッスのファンクラブ「キッス・アーミー」の会員だ。

 1976年に初めてキッスのアルバムを買った。メーキャップとクレージーなところが気に入り、あっという間にはまってしまった。ポスター、フィギュア、弁当箱を集め、ハロウィーンにはキッスの格好をしてお菓子をねだりに行った。

 20年後、将来の妻との最初のデートでキッスのコンサートに行った。そして今、20年がたち、子供たちを、キッスのラストコンサートツアー「エンド・オブ・ザ・ロード」のフィラデルフィア公演に連れていった。1人はキッスのメークをしたが、それはほかでもない私だ。

 キッスはある意味、現在のポピュリズムの時代を先取りしていた。ちょうど、米国のある大統領のように、その出現にエリートは驚愕(きょうがく)したが、一方では熱烈な支持を得た。エリート階級からはうとまれ、軽蔑されても、意に介さず楽しんでいる。キッス・ファンであることは、エスタブリッシュメントへの反抗だった。

 評論家にはこき下ろされ、グラミー賞は一度ももらえず、2014年になってようやく、渋々「ロックの殿堂」に入れてもらえた。最初に候補に挙げられてから15年かかった。音楽産業のエスタブリッシュメントからの強い反発があったものの、熱狂的な支持を得て、殿堂入りが認められた。リードボーカルのポール・スタンレーがフィラデルフィアでのコンサートで「ロックの殿堂はおれたちが嫌いなんだ」というと、聴衆は歓声を上げた。

◇ニューヨークに移住

 キッスの誕生は、米国ならではの現象だ。結成時のメンバー、シーン・シモンズは、イスラエルのハイファ生まれで、名はハイム・ビッツといった。母親はハンガリー出身のホロコーストの生き残りで、収容所で家族が殺されるのを目撃した。イスラエルに移住し、惨めな貧困生活を強いられた。

 シモンズは「何もなかった。…破れたセーターを着て、トイレットペーパーなど見たこともなかった」と述懐している。8歳の時、ニューヨークに移住、漫画を読んで英語を話すことを覚えた。キッスを一躍有名にしたコスチュームやメーキャップが誕生したのは、この漫画の影響だ。

 スタンレーは本名スタンレー・バート・アイゼン、やはりニューヨークで、ナチスドイツから逃れたユダヤ人家庭で育てられた。この国で与えられたチャンスをものにし、何もないところから、アルバム1億枚以上を売り上げるまでにのし上がった。

 3000以上の製品でライセンスを持ち、2000回以上の公演を行い、獲得したゴールドレコードは米国のどのバンドよりも多い。キッスは間違いなく、ロックバンド中のロックバンドであり、史上最高のロックバンドだ。シモンズは、「私は資本主義制度の申し子だ。何も持たず、アメリカに来た。チャンスの国アメリカで生活する恵みを受けた」と話す。シモンズはこのツアー中に70歳になるが、今も火を吹き、スタジアムでの公演のチケットは売り切れだ。すごい国だと思う。

 キッスは米国を愛している。アメリカンドリームを体現したからだ。愛国者であることは間違いない。

 16年にナショナル・フットボールリーグ(NFL)の選手らが、国歌斉唱の際に膝をつき始めた時、キッスは「フリーダム・ツー・ロック」ツアーを開始してこれに対抗した。退役軍人に割引チケットを提供し、州兵と予備役をコンサート設営スタッフに招き、「わが国の英雄と傷を負った戦士を雇おう」プロジェクトなどで、コンサートのたびに退役軍人のために何十万㌦も寄付金を集めた。

 公演では、国歌を演奏し、「忠誠の誓い」を唱和した。スタンレーは聴衆に、「忘れないでくれ。愛国主義はいつだってかっこいい。自分の国を愛することはいつだってかっこいい。この国の軍隊を支援し、敬意を払い、称(たた)えることはいつだってかっこいい」と言った。

◇過去最大の公演

 キッスは今、その旅路の終わりに到達してもなお、かっこいい。ラストツアーで、過去最大の公演をしてみせた。空から降り立ち、立ち上る巨大な炎は、上階にいてもその熱を感じられるほど熱かった。

 シモンズは、血を吐き、火を吹いた。67歳のスタンレーは、客席の上に張ったワイヤで宙を舞った。トミー・セイヤーはステージ上空でスポットライトを浴び、ギターからは炎が噴き出した。公演の最後には、シモンズとセイヤーが、長いアームを付けた台に乗り、スタジアムの上階にまで届かんばかりに客席の上にまで飛び出し、安い席の私たちにも、前列で味わえるような興奮を届けてくれた。

 子供たちは、この光景に魅せられていた。だが今後、二度と見ることはない。

(4月10日)