真の教育改革とは何か

NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会名誉会長 久保田 信之

「教育そのもの」の議論を
広い視野と豊かな感受性育てよ

久保田 信之

NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会名誉会長 久保田 信之

 安倍晋三首相はかつて「教育再生会議」を招集して、緊急を要する教育改革の課題を①教員免許更新制度②学校評価制度の導入③体験活動や奉仕活動を通じて規範意識や情操の育成④家庭や地域の教育力向上―などを検討課題として掲げ、「教育再生に向けて全力で取り組む」と決意を表明した。これが「教育再生会議」発足の原点であった。「学校教育や家庭や地域社会の人心の乱れ」が深刻な社会問題となっていた時であったから、首相直属の「教育改革推進会議」の設置は歓迎された。

結果よりプロセス大事

 しかしご承知のように、第1次安倍内閣の退陣に伴い、当たり障りのない最終報告を提出して解散した。その後、第2次安倍内閣でも「再生実行会議」が復活されたが、何ら「教育」を活性化する成果も出せずに歴史から消え去ったままだ。安倍晋三氏の常套(じょうとう)手段は、社会的課題に果敢に挑戦する姿勢を示すのだが、専門家(?)を集めた「検討会議」を発足させ、議論させ、「報告書」を提出させて終わりにすることだ。

 長きにわたる安倍内閣の足跡のうち、教育自体の改善が具体的になされた実例がどれほどあるであろうか。「人間関係と教育の混乱」は改善されていないどころか、「社会の病理現象」は深刻の度を増すばかりではないか。

 各界の専門家と称する人々の中には「教育活動そのもの」の価値と目的を考えようとはせずに、教育活動の結果として「如何(いか)なる価値を実現させるか」「如何なる理念を形成させるか」といった「教育活動の向こう側」を「教育目的論」だと思い込んでいる御仁が多いのが現実だ。

 彼らは、教育を通して到達する理想をあれこれ議論するが、それに至るプロセスは不問に付している。教育を通して相手の心を変化させ、成長させなければならないというのに、教え込み暗記暗唱させて、教育する側が望む結果が出れば「教育活動は成就した」と自己満足するのだ。早く、無駄なく、要領よく目的を達成すればよい、というのであるから「教育しないことが教育者の理想」となり、「関わり合いを充実させ、教育を活性化し、興味関心を旺盛にすることこそ教育の向上だ」とは考えようとしていない。これを「教育論」とは到底言えまい。

 「教育論」に関心を持つのならば「教育力豊かな関係を作るには如何なる施策を採ったらよいか」、この一点に絞った議論をしてほしいのだ。具体的に言うならば、夫と妻、親と子、教師と生徒等々、人間と人間、あるいは国家・社会と人間、そして歴史・文化と人間との間に「豊かな関わり合いを形成するには如何なる施策を立てたらよいのか」、こういった「教育そのもの」の議論を深めてほしいと言いたい。

 つながり、関わり合いを遮断して「個の確立」を求めてきたのが敗戦後の日本であった。すなわち「教育を否定してきた」のが戦後の日本であったのだ。「他人に依存するな」「自分の意見をしっかりはっきり主張せよ」「みだりに他人に動かされるな」「己の道は己で切り開け」等々、「自己を絶対化して他を否定」したり「特定の主義主張に拘泥」させてしまったりしては、豊かな感受性は育たない。たとえ立派な崇高な主義主張を教え込んだとしても、固く狭い心に育ててしまっては、新しい条件に適応しながら、新しい自分を探し出す創造的思考は、機能不全に陥ってしまう。

 先人から学ぶことは「たどり着いた答え」ではない。先人が真剣に追い求めた課題と諸条件の処理方法であり、先人の思考プロセスをたどること、たどらせること、でなければならない。

限りない螺旋的成長へ

 まとめていうならば「広い視野」に立たせることから「豊かな感受性」が生まれ、「逞(たくま)しい創造力」が育つ。その結果として「新たな視野の広がり」が確立し、新しい感動が生まれる。こういった「螺旋(らせん)的な限りない成長を求める」ことこそ「教育活動そのもの」の目的なのだ。

 真の教育改革を目指すのであれば、こういった限りない成長を可能にするには、如何なる教育図書を提供したらよいか、如何なる教育環境を整備したらよいか、教育方法は、教育評価は、等々、科学的、分析的、体系的な検討がなされなければならないと強く主張したい。

(くぼた・のぶゆき)