最後は「町人」に牛耳られた江戸時代の幕藩体制


 仕事柄、深夜から早朝の帰宅になることが多い。テレビをつけると「おはよう!時代劇『暴れん坊将軍』」松平健演じる徳川吉宗の番組をやっている。

 当初は勧善懲悪、吉宗の立ち回りが気に入って見ていた。吉宗は庶民の声を聴く「目安箱」を設置、貧困層救済のため無料の医療機関「小石川養生所」を創設、野放図に華美に流れる武士階級・浮世を戒める倹約令を出して幕府財政の立て直しをした、程度のことは知っていた。吉宗は何をしようとしたのか?疑問を持って調べてみた。

 幕府開闢(かいびゃく)時には佐渡の金、石見の銀など産出場を幕府直轄領にして裕福な時代だった。東照宮建設に57万両、家光の訪問に100万両(10回分)、島原の乱平定に40万両という途方もないカネをつぎ込めるだけの財力があった。だが、江戸時代も半ば、吉宗の時代になると高騰する物価に反して武士の給料は徳川幕府開闢以来の米に由来する石高制で微増のみ。出費がかさんでも、給金は増えない。蔵米を管理、換金する札差、豪商、豪農からの借金苦に苛(さいな)まれる。

 「入るを量りて、出流を制す」政策を実施。食事から着衣まで緊縮財政を進め、参勤交代を軽くすることで各藩から“上納金”を集めたり、でき得る限りの手を使った。大まかに言えば借金をチャラにしますよ、という“御触れ”も出している。

 吉宗の構想は9代将軍家重に引き継がれたが、“骨抜き”にされ、根本的な解決策にならなかった。「商人のカネ儲(もう)け」は武士を圧迫、明治維新まで続いた。楽市楽座のような“織田・秀吉時代の借り物”で通してきた結果、町人が武士を圧迫する時代が訪れ、士農工商の秩序が乱れ、幕府を窮地に追い込み、明治維新の基礎が築かれた。

 振り返って我が家を見ると、コロナ禍の在宅勤務で各種手当が削られ、緊縮財政を余儀なくされている。「入るを量りて、出流を制す」妙案は無いものか。

(和)