「沖縄会議」構想の実現を
エルドリッヂ研究所代表・政治学博士 ロバート・D・エルドリッヂ
成功収めた「京都会議」
大事な日米両政府と県の対話
昨年9月、米海兵隊の普天間飛行場の名護市辺野古への移設反対を主張し沖縄県知事に当選した玉城デニー氏は過去2カ月間、さまざまな場で日米両政府の合意や沖縄に関するその他の問題を見直すことを呼び掛けてきた。その中の一つの場は、日本政府との直接会談だ。もう一つは、SACO(沖縄に関する特別合同委員会)に沖縄を加えた「SACWO」という新たな協議機関だ。1年以内に「沖縄県民の負担を軽減すると同時に、日米同盟を強化する」ことを目指して1955年11月に設置されたSACOの最終報告は、まず、普天間飛行場のキャンプ・シュワブ沖の辺野古への移設を求めている。
沖縄返還交渉の指針に
こうした知事の行動が成功するかどうかは定かではない。適切な協議ができ、結果を出せるかどうかは、適切な人選ができるかどうかも一つの要因だからだ。ただ、基本的に筆者はこうした対話はとても大事で、日米両政府が説明責任を尊重するならば、これらの機会を日米両政府の立場を明確に説明するために活用すべきだと思っている。長年、筆者は同様の提言をしてきた。筆者は、日米合同委員会で基地の問題が議論される時、その基地を受け入れている沖縄県や自治体が出席できるようにすることを提言している。発言したり、決定に直接影響を及ぼしたりすることが認められるべきかどうかは別の問題だが、透明性の確保は大切だ。
もう一つ玉城氏が提案しているのは、2000年のG8サミットの開催地であった名護市の万国津梁館で沖縄会議を開くことだ。筆者はサミット開催以後19年間、沖縄会議を提唱してきただけに、この呼び掛けを特に支持している。県民投票翌日の2月25日、BS―TBSの番組にパネリストとして出演し、投票の結果や日米両政府と沖縄がもたらした混乱からどのように進むべきかについて議論した際、改めて提案した。
こうした提案を説明すると、ほかのパネリストらは驚いていた。筆者はこれまで、2016年に集英社で出版された自叙伝『オキナワ論―在沖縄海兵隊元幹部の告白』などで沖縄会議について触れてきたが、そのことを知らなかったからだ。さらに、ちょうど50年前、歴史的成功を収めた「沖縄およびアジアに関する日米京都会議」についても誰も知らなかったようだった。筆者の提案はこの会議が元になっている。
1969年、4日間の日程で行われた「京都会議」の出席者は、日米両政府と密接な関係がある著名な学者や元高官だった。これは「トラック2外交」と呼ばれるもので、民間人と学術機関が議論を手助けする。ただこの場合は、参加者と政府が情報を緊密に共有していたから「トラック1・5外交」と私は呼んでいる。会議を通じてまとめた勧告が佐藤栄作首相に直接、手渡され、これが日本政府の沖縄返還交渉の指針となった。
新しい沖縄会議を開催するよう初めて提案したのは2000年4月のことだ。会議は沖縄サミット直後、京都ではなく沖縄、しかも、サミット会場と同じ場所で開催する予定だった。沖縄に向けられていた高いレベルの関心を生かすことができるからだ。沖縄県は京都会議ではオブザーバーとして参加していたが、今回は主催者になってもらおうと考えていた。
残念ながら、この提案を沖縄県に伝えたところ、知事は一切関心を示さなかった。沖縄県が当時のチャンスを生かせず、対話を前進させることができなかったことに失望した。
サミット後に関係悪化
沖縄サミット開催当時、沖縄と日米関係はクライマックスだった。それ以降、この関係はまるで両翼を失った飛行機のよう急激に悪化していった。名目上は基地容認の保守県政は怠慢で、長年、米国と日本と沖縄の3者の関係において実質的な仕事をほとんどしなかった。一方、何でも反対する反基地県政は停滞していた関係をさらに悪くした。あれから19年、玉城知事は新しい会議を立ち上げることでこの構想を実現しようとしている。この機会を失ってはならないし、少なくとも実現のための努力をすべきだ。