沖縄革新の二枚舌を暴く
OKINAWA政治大学校名誉教授 西田 健次郎
浦添は認め辺野古は反対
埋め立てに善悪の区別はなし
現在の沖縄革新について論述する前に、1960年の第1次安保闘争から72年の祖国復帰実現までの沖縄近現代史に触れたい。
筆者は、65年、琉球大学の同志7人(七人の侍)で「自由主義学生同盟」(自学同)を結成した。全国的にも岸内閣の日米安保条約締結反対のすさまじい余韻があり、世界では中国の共産主義革命、ベトナム、北朝鮮、ヨーロッパの社会・共産主義革命が世界の流れのような錯覚に酔いしれた反日反米の学生運動も激しかった。
共産党票欲しさの野合
とりわけ沖縄は米軍占領下にあり、極東最大の米軍基地、嘉手納基地からB52戦闘爆撃機が連日、ベトナムに飛び立ち、それに関わる事件事故も日常茶飯事であった。小田実氏らによるベトナム戦争反対(べ平連)運動も激しく始動し、琉球大学キャンパスはマルクス主義研究会(マル研)、革マル派、社会主義青年同盟(社青同)、日本民主青年同盟(民青)が跋扈(ばっこ)して、セクトの争いも激化していた。
特に祖国復帰運動の先陣にいた沖縄教職員組合(沖教組)と自治労、全軍労が組織労働組合としておよそ8万人。本土とは異なり、労働三法、公務員法の縛りがなく、役所、公立学校、保育所などをストライキでロックするのが当たり前の法体系だった。沖教組が授業そっちのけで政治闘争に狂奔しているのを正常にすべく、自民党は本土並みの教育公務員法の制定に必死になった。結果、われわれ自学同も深い傷手を負うことになった。沖縄政治史上の大事件に発展した「教公二法闘争」である。
反対派は数万人単位で立法院を包囲し、ついには警備の機動隊(約200人)をごぼう抜きにして占拠するなど、まるで革命が成就したかのような異常事態が発生した。そのような政治状況でわれわれは自学同を結成したのであり、身命を賭しての戦いを余儀なくされた青春の歩みが今日まで続いている。
ここから本論に入る。筆者は浅学非才で現場闘争型の政治家と自覚しているが、最も尊敬している台湾建国の父・李登輝閣下による『学問のすゝめ』『万葉集』『奥の細道』などの講義を拝聴した。中でも、特に日本人は「武士道」の精神を忘れるなとの諭しが琴線に触れ、今も心に刻まれている。
言行一致を旨として微力ながら愚直に精進している筆者からみると、昨今の沖縄の革新勢力の言動には辟易(へきえき)せざるを得ない。安保闘争当時のような信念がなく、矛盾だらけなのだ。
特に、那覇軍港移設においては、「オール沖縄」なる選挙組織は、反米・反基地という政治思想理念と根本的に異なっているのは明々白々だ。「オール沖縄」とは、共産党、社民党を中心に、保守系の一部、労組を巻き込んで翁長雄志知事を誕生させた勢力のことを指す。
「天皇制」「日米安保体制」「自衛隊」「集団的自衛権」など、日本国・国民の在り方の根本が問われているが、日本共産党は、時期が到来(共産党政権誕生を意味する)すれば、全て否定し反故(ほご)にするとの党是は全く変わっていないのだ。爪と牙を隠し、文化共産主義を装っているのだ。
一方、保守本流とは、世界に誇れる悠久の歴史と文化、自由主義の道義を理解する者だ。共産党の票欲しさに共闘するのは野合そのものであり、保守と称する政治家やリーダーの類いではない。共産党に利用されるだけで自らの思想信条の自殺になる。
米軍基地返還台無しに
卑近な例は、普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設は反対だが、那覇軍港の浦添埠頭(ふとう)への移設には同意していることだ。玉城デニー知事、野党国会議員、県政与党の一部県議の先生方よ、辺野古沖と浦添唯一の天然ビーチ「カーミージー」(亀瀬)のサンゴにどんな違いがあるのか。良い埋め立てと悪い埋め立てに明確な区別はあるのか。辺野古移設が完了しなければ、沖縄に関する特別行動委員会(SACO)合意で定められた普天間飛行場を含む嘉手納以南の米軍基地返還が台無しになる。
革新県政の間、反対派を抑えながら軍港移設を進めさせるのだろうか。かつて、久米島空港滑走路の海への延長をしたのは大田昌秀知事だった。大宜味村の大保ダム建設時の排土を使って塩屋湾内を埋め立てる大規模工事でも反対の声は上がらなかった。いずれも当時は革新首長だ。感情的な反対論・運動を抑えるには、プロジェクト工事の間は革新首長にしておくというのか。革新の二枚舌のしたたかさを見抜く必要がある。
(にしだ・けんじろう)