発想の転換なき大学入試改革
沖縄大学教授 宮城 能彦
「知識不足」の学生たち
「選別」から「育てる」に重点を
2020年度から大学の入試の方法が変わるらしい。
大学で勤めているのにもかかわらず「らしい」などという表現を敢(あ)えてしたのは理由がある。
結論から先に言えば、二つの意味で私にとっては現実味がないからである。
一つは、東大・京大という旧帝大レベルの受験生、少なくとも国立大学に入学するようなレベルの受験生を想定しているようにしか思えないから。
もう一つの理由は、少子化が進む中で、相変わらず「ふるいにかける」という本質的な発想に変化がないからである。同年齢人口が多く、競争を勝ち抜かなければならなかった団塊の世代の発想から抜け出せていない。多くの大学で既に定員割れを起こしている。これからは、「選別」「選抜」の時代から「育てる」ことに重点を置く時代になるべきだと考える私のような者にとっては、今回の入試改革も、旧帝大レベルや医学部レベルの受験生を前提とした内容だとしか思えない。
おそらく、偏差値の高い大学では、知識量は多いが応用が利かない学生や、広い視野で総合的に考える力が不足している学生が問題になっているのであろう。俗にいう「おたく」的な学生に悩まされているのかもしれない。
今回の改革は、これまでのセンター試験になかった記述式問題の導入と、英語では4技能(読む・聞く・話す・書く)を評価することに重点が置かれている。「知識・技能」だけでなく、「思考力・判断力・表現力」を重視するという考えがベースにある。
これまでの「知育偏重」から「思考力重視」への変更ということで、「共通一次試験以来の大改革」と言われ、既に学習塾や予備校ではその対策が始まっている。
しかし、旧帝大・医学部レベルはともかくとして、少なくとも地方の私立大学や国立大学の現場で困っているのは、学生たちの知識不足と読解力不足である。大学生の数としては圧倒的にこちらの方が多い。
それは学習指導要領が「考える力」を重視するようになった、いわゆる「ゆとり世代」から始まる。知育偏重を反省し総合的な学習の時間の導入やテストの点数だけではなく、授業態度や積極性をも加味した観点別総合評価が始まった頃から、大学に入学してくる学生の知識量の少なさが大学の現場では問題化していったのである。
特に、私のような大学でいわゆる「教養科目」を担当している者にとっては深刻であった。
それまでは、「詰め込み教育」で詰め込まれた知識という点と点をいかに繋(つな)げ、形にし、面にしていくかというのが大学における教養教育の役割だと「私は」考えていた。
しかし、「知識」が圧倒的に少ない学生たちには、とりあえずその「知識を与える」ことから始めることが必要になってくる。その頃から大学でリメディアル教育とか初年次教育ということが話題になり、多くの大学で実践されるようになっていった。例えば、物理学科の学生に高校の物理を教えるとか、経済専攻の学生に数学の基礎を教える等。
小中高校で、「考える」ことに重点を置くようになってから、大学で「知識を与える」ようになったのである。
これではいくら時間があっても足りない。私の立場からすれば、「総合的な学習」は大学に任せて、その前提となる「知識」を持って入学して来てほしい。
少子化に伴い大学によっては入学生の定員割れが起きている状況においては、「知識不足」「考える力不足」の学生をも入学させなければ経営が成り立たない。選抜試験ではなく、大学で学ぶことができるだけの基礎知識があるという「大学入学資格」試験の方が、エリート養成ではない大学には必要である。
「そもそも、学力が低い学生を入学させている大学が多過ぎる」という世間の批判は「ごもっとも」であるが、これはまた別のテーマになるので後日考察しようと思う。
私が問題にしたいもう一つのことは、競争させて「ふるいにかける」という発想である。
団塊の世代やそのジュニアの世代であれば、それでよかったし、選抜をしなければ物理的に学生をキャンパスに収容することができなかった。人材が有り余っている時代においては、極端に言えば、大学で学ぶことに必要な基礎知識や「考える力」のある学生を選抜するには、どんな形の入学試験であれ、よかったのである。
そして、その入学試験という関門を突破した学生は、自ら学ぶことができる能力を有しているので、大学における教育内容や方法は大きな問題にはならない。だから、多くの企業は、「大学で何を学んだのか」よりも、「どの大学に入学できたのか」を選抜の一番の基準にしてきたのであろう。
すなわち、日本の高等教育の多くの実態は、高校までに完成された人材のモラトリアムであったのである。
しかし、何度も強調するが、今は少子化時代である。小学校から中学、高校、大学と、連携して子供たちを育成していくという発想に根本的に変える必要がある。今度の入試改革も「完成された」人材を選別するためのふるいにしか私には思えない。
(みやぎ・よしひこ)






