「学問の自由」妨げる教育者

エルドリッヂ研究所代表・政治学博士 ロバート・D・エルドリッヂ

ロバート・D・エルドリッヂ

学生に新しい情報与えず
意見異なる講師の講演を拒否

 最近、国内の二つの大学で学生に講義するという機会を与えられたものの、拒否されるという非常に不快な経験をした。一つは名古屋市にある公立大学で、もう一つは福岡県内の私立大学だ。両方の経験は似ているが、後者を中心に述べたい。

 筆者は作家として受賞歴があり、大阪大学の准教授も務めた。今でも学術面での関係を維持している。国際基督教大学、北海道大学、首都大学東京、立命館アジア太平洋大学、法政大学、沖縄国際大学とも連携している。大学での講演には慣れているし、学生や若者と交流するのも好きだ。

 米国、アジア、欧州を訪れた際には、現地の大学を訪問し、講演や講義をし、若者と会うようにしている。今年2月1日付の本稿「日本は広報文化外交に力を」の中でこれらの経験について書いた。

しかし、全く想定していなかった不快な経験をすることになった。一部の教授陣は、筆者の視点が「政治的」「保守的」過ぎ、教室やキャンパスで講演させるべきではないと考えたようだ。

 教室内であれば、教授に講演してもらいたいゲストを選ぶ権利がある。そもそもゲスト講師を望んでいないのか、ゲスト講師を受け入れる余裕がないほど忙しいのか、カリキュラムがあまりに窮屈で講演を追加する時間などないということもあり得る。

 それならばよい。スケジュールが柔軟性に欠くとか、教授陣が外部講師による講演を調整することに関心がないのであれば、それは不運というしかない。教授らには、これらの理由で外部講師を招かない権利がある。

 だが、教授らが自身のイデオロギーを振りかざし、自身と違う視点を持ったゲスト講師が教室に来ることを妨げるとなると話は別だ。ある大学の副学長から受け取った電子メールを紹介する。

 <大変残念なことですが、どうも他の御二人の先生が年間のゼミのスケジュールのなかで急にエルドリッジ先生に講演をしてもらうことに消極的な意見をお持ちのようです。ゼミの中で色々な立場の事前学習を経てお話しいただければ良いのだけれど、急に政治的な立場を明確にしておられるエルドリッジ先生の話を聞かせることに躊躇(ちゅうちょ)があるようです。

 私としては様々な意見を聞くことで事実に迫っていく学問本来の姿を追求するにはもってこいの場となると期待していたのですが、イデオロギー的に硬直した考えをもった教員が結構いるようで、なかなか容易ではないようです。たぶんこの前送っていただいたCVのなかに、日本の中では右よりと思われている出版社からの雑誌論文や本が沢山入っていることが、そのような反応を引き起こしたものと推察されます。以上のようなことで、11月7日に実現すれば良いと思っていた3ゼミ合同の授業での講演会は実現することが出来ませんでした。申し訳ありません。>

 つまり、イデオロギーを理由に、ゲスト講師を教室または学内で講演させることを拒否するということであり、「教育者」自らが教育を政治化している。彼らはそれに気付いていない。何とも皮肉な話だ。滑稽であると同時に懸念すべきことだ。さらに、これまで一度も会ったことも話したこともない人物の価値観を、他者の情報を基に批判することは、知的好奇心と批判的思考の欠如を意味する。

 「左翼」というものは、言論の自由と学問の自由を重んじるものと考えられている。だが、このケースでは、どちらの自由も重んじていない。言論の自由と学問の自由を重んじるのが左翼だというのなら、それらの重要性を強く信じる筆者の方がむしろ「左翼」ということになる。

 私は、意見や立場が違っても、相手の権利を尊重してきた。イデオロギー的な立場とは関係なく、「左」や「右」の発言者の権利のために戦ってきた。その権利を奪おうとする「左」や「右」の人々と戦ってきた。相手が誰であれ、これらの権利を否定することは決してしない。それが教室の中でのことであればなおさらだ。

 授業は、新しい思想や考え方にオープンであるべきで、それらに触れ、学ぶことは重要である。教育とは「何を」考えるかではなく、「どのように」考えるかを教えることだ。

 上記の教育者は、学生らがさまざまな考え方、新しい情報に触れることを恐れている。筆者はこれを「学術過誤」と呼んでいる。新しい情報、治療法、技術を恐れるあまり、患者の容態を悪化させ、死に至らしめる医師と同じである。柔軟な思考、好奇心、自分で考える能力に欠ける学生を卒業させることは、これと変わらない。

 こうした教授らは、自身の無知や偏見が露呈することを恐れているのではないだろうかと思うことがある。それとも、真実を恐れているにすぎないのだろうか。学問の自由は教授だけでなく、学生にも必要なものだ。

 たくさんの日本の学生と会えば会うほど希望を感じる。皮肉にも、教授には会えば会うほど希望をなくしてしまう。これらのいわゆる「教授」らは、日本の若者、ひいては国家、世界に大変な害を及ぼしている。