改めて「デジタル教科書」を問う

メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄

知の基本は紙の教科書
人間は言語によって人格形成

メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄

 昨今、若い世代の自殺が急増し、加えて、「いじめ」が多発している状況は座視することができず、極めて憂慮に堪え難い思いである。さらに、若年の「睡眠障害」が増え続け、「精神的不調」が多発傾向にあることも放置できない状況である。

 固(もと)より、“教育の目的は健全な精神をつくることである”と語ったのは、フランスの作家アンドレ・モーロワである。そして、“自らを支配することを会得することこそ、大事なことはない”とモーロワは述べている。

心身への悪影響を懸念

 この「健全な精神をつくる」教育が、いま重大な岐路に直面しているのではなかろうか。それは言うまでもなく、2024年度以降、小中学校で使う教科書を「デジタル教科書」にしようとする中間まとめ骨子案を、文部科学省の有識者会議が提示したことである。

 この「デジタル化」に伴って、若い世代の心身への深刻な影響が懸念されるのである。例えば、『スマホ脳』の著者・スウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセンは、スマートフォン(スマホ)が脳に与える影響について警鐘を鳴らしている。それは、人類の歴史的考察によれば言葉や文字は集中力によって獲得して来たのであるが、その大事な集中力をスマホは奪ってしまう。人間の脳は固より「デジタル社会」には不適応であるという。

 “学ぶということは自制心を養うことに他ならない”と齋藤孝(明治大学教授)は言う(『教育力』)。つまり、学習することによって、メンタル・コントロール(心の制御)の技術を学ぶことである。その意味では、“教育は、どのようなものであれ、内面へ向かう旅である”(チェコの劇作家・バツラフ・ハベル)という言葉に共感を覚えるのである。

 そして、ハンセンはこう述べている。“人間がテクノロジーに順応するのではなく、テクノロジーが私たちに順応すべきなのだ”と。確かに、古くは『荘子』にこう述べられている。“機械ある者は、必ず機事あり。機事ある者は、必ず機心あり”と。即(すなわ)ち、「機械ができると便利で、その機械を用いることが多くなり、いつしかその機械に振り回されて人間の本来の心が不在になり、心までがメカ化されてしまう」と。これが、「デジタル社会」の落とし穴ではなかろうか。

 また、脳科学者・森昭雄(医学博士)は、その著『ゲーム脳の恐怖』で“スマホのブルーライトの視覚刺激で睡眠変調と恒常的な時差ボケ状態に陥る”と警鐘を鳴らしている(本紙3月12日付)。

 さらに学習効果について齋藤は、「デジタルのみでは学力低下を招くし、知の基本は紙の教科書である」と指摘している。それを裏付ける研究が酒井邦嘉(東京大学教授)らによって行われ、“紙媒体による学習の方が脳で扱える情報が多くなり豊かな創造性につながる”と報告されている。

 政府は、本年9月のデジタル庁の創設に伴い「デジタル化」の推進を掲げている。行政手続きの効率化、行政文章のデジタル化は急務ではあるが、教科書は紙を基本とし、これを同列に論じるには違和感を覚えずにはいられない(本紙「記者の視点」4月24日付)。

 言うに及ばず“教育の目的は機械を作るにあらず、人を造るにある”とフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーが語っている如(ごと)くに、「教育」の本質は人格の陶冶(とうや)であり、規範意識の形成と自己抑制力を養うことは明らかである。

 人類の長い歴史の中で、人は紙に文字を書き活字を一つ一つ読んで考え、言葉で表現して人格を形成して今日に至っているのである。即ち、“人間は言語によってのみ人間である”(ドイツの言語学者・シュタインタル)ことを改めて痛感せずにはいられない。能率と効率の功利主義よりも、挫折と失敗の苦労の経験が真に生きる力を育むことは、これまで多くの先人が教えてくれた尊い教訓ではないかと思う。

人間らしさを取り戻そう

 昨今の機械文明のメカ化社会の中で、人間らしさが失われつつある状況を思うに、勉めて自然と共に自然の中で自分を取り戻すことが、昨今の危機的状況を救う処方箋ではないかと切に思うのである。

 おわりに、大村智(さとし)(2015年ノーベル生理学・医学賞受賞)はこう述べている。“子供は人間として生まれてくる。これを機械人間が育て教えるところに問題がある”(『人をつくる言葉』)と。(敬称略)

(ねもと・かずお)