増え続ける「いじめ」の病理現象
メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄
改めて教育の本質を問う
心と心の交流で人格を陶冶
全国の小中高などが2018年度に認知した「いじめ」は、前年度比12万9555件(31%)増の54万3933件で過去最多と最悪の状況で、深刻な社会問題である(文部科学省・10月17日公表)。加えて、いじめ防止対策推進法に定める「重大事態」も同128件(27%)増の602件と最も多かった。また、学校が把握した18年度の自殺者は332人(同82人増)で、内9人(中学3、高校6)は、いじめを苦に自殺している。
このような状況下で、教師への信頼が失墜する事件が神戸市の市立小学校で発生した。30代から40代の教師4人が20代の教師に卑劣な行為を繰り返していたという。萩生田光一文部科学相は、この問題について「言語道断であり、極めて遺憾である」と厳しく批判している。このような教師たちに、子供の教育を任せることは到底不可能であり、教師の資質が問われる由々しき問題という他はない。
教師に心のゆとり必要
このような状況は、実に憂慮に堪えない問題であり、今、改めて「教育の本質」を問い直す必要があるのではなかろうか。
もとより、“いじめ”とは、「児童等に対して、当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの」(「いじめ防止対策推進法」・平成25年法律第71号)と定義されている。この「いじめ防止対策推進法」は、去る平成23年10月11日、滋賀県大津市において、いじめ自殺事件が発生し、大きな社会問題となりそれに対応して「教育再生実行会議」における提言を取りまとめて制定されたものである。分かりやすく表現すれば“いじめ”とは、「同一集団内の相互作用過程において優位に立つ方が、意識的に、あるいは集合的に他方に対して精神的・身体的苦痛をあたえることである」(森田洋司・1986年)。
しかるに現状は、「いじめ問題」は全く無くなる気配はなく、むしろ増加の一途をたどっている。このような現状にどう対処するかは極めて重要な「教育の本質」に関わる問題である。この点について、本紙「社説」はこう論じている。「いじめをはじめとする問題行動や不登校を減少させるには、児童・生徒が安心して過ごせる教室をつくることが肝要だ。児童・生徒の一人一人が先生から尊重され、育まれ、見守られていることを感じるには、先生にある程度の余裕がなければならない」と(令和元年10月20日付)。
確かに「いじめ要因」として、①自分が尊重されていないことからくる不満②絶えず評価され、ランク付けられていることによる精神的ストレス―などがある。(深谷和子による)“教師に児童・生徒を見守り育む心のゆとり”が今、求められると同時に“教師と児童・生徒との信頼関係に基づく心の交流”が教育の原点ではなかろうか。
教育の本質は「人間性」に関わる問題そのものであり、人間が充実して有意義な人生を送るためには、互いに信頼し、信頼される「人間としての生き方」を育むことこそ重要と言う他はないのである。
教育とは「訓練に他ならないと思う」のである。司馬遼太郎はこう語っている。“他人の痛みを感ずること、それは私達は訓練しなければならない。友達がころぶ、あっ痛かったろうと感じる心をそのつど自分の中につくりあげることだ”と(『21世紀に生きる君たちへ』)。教育は、教える者と教えを受ける者との心と心の交流を通して人格的な陶冶がなければならないのである。
秘訣は「生徒への尊重」
この「教育」の本質に関わる人格の陶冶(とうや)をどのように育むか、また子供たちの規範意識の希薄化と自己抑制力の欠如に対して、いかにその能力を養うかは急務という他はない。加えて、教職員が子供たちと向き合うことのできる体制を整えることも急務である。
また、「子どもの権利条約」(日本は1994年5月に批准している)に照らして“いじめは子どもの生きる権利を奪い、自己決定権や健康に暮らす権利を奪うものである”(6条・16条・36条)。今、改めて「教育とは」と問われて心に留めたいことは、次の言葉ではなかろうか。“教育の秘訣(ひけつ)は生徒を尊重することである”と。(アメリカの思想家・R・エマソン)
(ねもと・かずお)






