中越戦争以来、覇権主義的巨人中国が育った

山田 寛

 

 40年前の今、1979年2月17日~3月16日、中国軍がベトナム最北部に侵攻し中越戦争が戦われた。もしその戦争で中国が勝っていたら、中国軍は今これほど強大になっていなかったかもしれない。

 ベトナムは78年11月にソ連と協力条約を結び、翌12月中国を後ろ盾にしたポル・ポト(暗黒)革命政権のカンボジアを総攻撃し、79年1月同政権を打倒した。

 中国はそれに対する「懲罰戦争」を実行したのだ。数年前までベトナム戦争で支援していた社会主義の弟分に、である。数字は発表されていないが、侵攻中国軍は20万人以上で、ベトナム側は約10万人、死者は双方とも数万人だが、中国の方が多く5万人以上と見られる。中国軍は、地雷原も歩兵隊が突進して道を開くなど、朝鮮戦争以来の人海肉弾戦術。4省都を一時占領したが、どう見ても中国側の負け戦だった。

 中国では改革開放を目指す鄧小平体制が始まったばかり。鄧氏はこの軍事的劣勢に衝撃を受け、毛沢東式人民軍からの脱却、富国強兵の軍事改革に取り組んだ。兵員数削減と、科学技術近代化による軍現代化である。負け戦が軍事改革を促した。

 次に思い出すのは、当時の国際的な中国応援ムードの高まりだ。米、日、東南アジア諸国などが、非公式・暗黙に「懲罰戦争」を支持した。78年10月に日中平和友好条約が結ばれ、79年1月に米中国交が樹立され、鄧氏は訪米も来日もした。中国びいきのキッシンジャー元米国務長官は回想録で、中国が米国を前例のない緊密な協力関係と共同行動に引き込み、米政権は中国の技術・軍事的能力を高めることが、世界の均衡と米国の安全保障に重要と結論した、と記している。

 日本でも80~85年、政府の世論調査で「中国に親しみを感じる」回答がほぼ毎年70%台半ばにも上った。対中ODA(政府開発援助)も急勾配で増大した。

 そんな協力も受けて経済を急成長させた中国は、89年以後の27年間のうち26年、公表国防費の伸び率が前年比10%以上という“偉業”(異業)を記録した。

 中越戦争時、私は駐バンコク記者で、タイ軍の情報将校から戦況情報をもらっていたが、タイも中国べったりで中国側に甘い情報が多く、真偽の選別に苦労した。

 ポル・ポト政権打倒―中越戦争―80年代のカンボジア内戦は、「第3次インドシナ戦争」とも呼ばれる。キッシンジャー回想によれば、中国は米国などをこう説得した。

 ベトナムの勢力拡大は、ソ連の世界規模の戦略的展開の決定的一歩となる。ソ連はインドシナ、アフリカ、中東にまで基地を獲得し始めている。重要なエネルギー源、シーレーンを握り、将来の全紛争で戦略的主導権を握ることが可能になってしまう――。

 本来「懲罰戦争」など支持すべきかが問題だが、この説得も効き、中国の武力行使は容認された。「第3次…」を通じ、中国はソ越の中国包囲網を破り、ソ連の覇権を制する戦略的勝利を得たと言える。

 その結果、中国共産党は、「我こそ正義」意識を一層強め、国民にも教え込んだ。私は大学教員時代、多数の中国人留学生に接したが、「中国が行った戦争は全て正義の戦争です」と胸を張る学生たちがいた。

 中国は今、中越戦争時に自らが警告したソ連の筋書きを実践している。学校でも、必要なら武力ででも「核心的利益」を守るのが正義と教えているだろう。

 米国は対中警戒心を格段に強めているが、日本は対中関係改善ムードだ。だが、中国の覇権主義的行動や武力の示威には明確にノーを言おう。中国ももう「懲罰戦争」は言い出さないだろうが。

(元嘉悦大学教授)