米貧困層に潰されるかTPP

アメリカン・エンタープライズ政策研究所客員研究員 加瀬 みき

加瀬 みき大統領選左右する不満

変化した自由貿易への世論

 本年2月環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の基本合意が締結されると、日本ではすぐにでも正式に発足するかのような肯定的雰囲気が漂っていた。しかし、アメリカではほとんど話題にもならず、専門家は早期批准に懐疑的であった。従来は自由貿易支持の傾向が強かった共和党多数の議会が、大統領のファースト・トラック権限を延長することでTPPを後押し、基本合意にいたったが、大統領選挙が本格化するにつれ、TPPや欧州との自由貿易協定も遠のいている。批准が可能であっても数年先という見方が広まっている。

 今年の大統領選挙の大きな特徴は、エスタブリッシュメントやステータスクオー(現状)への激しい怒りである。金持ちや政治家ばかりが得をし、普通の国民は損をしている。経済が良くなっているといっても、自分の生活はよくならない。こうした怒りの矛先は政治家やウォールストリート、そして外国に向けられる。

 共和党大統領候補中ここまで最多票を獲得しているドナルド・トランプは、アメリカはひどい自由貿易協定を結んできた、TPPもひどい取引だと非難。TPPにより日本にさらに自動車関連の職を奪われる、中国製品には45%の関税をかけると豪語し支持を得ている。あらゆる自由貿易に反対してきた民主党候補バーニー・サンダースは予想外の健闘を見せ、その結果、国務長官時代はTPPを推奨していたヒラリー・クリントン候補もTPP批判に回った。

 CNBCが先月行った世論調査によれば、自由貿易はアメリカに利すると考える人はわずか27%、害をもたらしたとする人は43%、1年前に比べ自由貿易支持者は10%減っている。昨年5月のピュー調査センターの調査によれば、46%が自由貿易は職の喪失につながるとし、逆に雇用を増やすとしたのはわずか17%であった。また、46%が自由貿易によりアメリカ人労働者の賃金が下がるとみなし、上がると答えたのは11%であった。

 日本をはじめ先進国経済が伸び悩む中、アメリカでは失業率も大幅に減り、経済は上向き、連邦準備制度理事会は昨年末に金利を上げ、今後も徐々に上げる方向性を示している。しかし、高所得者の割合が増えるのと同時に低所得者や貧困層の割合も増えている。そして所得が少ない層ほど、収入の伸び率もはるかに悪い。経済成長がもたらした所得の増加の8割以上が人口の1割に集中し、不平等はますます広がっている。

 製造業関連企業が賃金の安い海外に工場を移すとアメリカ国内の職が減ったが、数年前から海外での賃金やコストが上がるにつれ、アメリカに再上陸する企業も出始めている。実際、製造業の雇用は増えているが、1970年代に比べればはるかに少ない。また同時に効率化、IT化が進み、求められる職の種類は変わり、ポストの数も減った。昔、組み立て工場で働いていた高卒者に職は戻らず、一方、エンジニアは不足し、外国からの技術者に頼るほどである。

 技術革新やグローバル化により、管理職や上級技術職は増え、事務職は接客などの職種までも効率化、機械化されている。コンピューターを操り、プログラムを組み、変化する状況に柔軟に多面的に対応できなければ、良い賃金を得られる職にはつけない。十分な学歴も技術も有さない人々は、パートタイムに甘んじたり、低賃金のサービス業職など複数の職をこなさざるを得ない。

 例えば昼間は金融機関の郵便物仕分けや使い走りをし、夜は配車サービス「ユーバー」のタクシーとして自家用車で客を乗せる。低所得者の約半数の2300万人は3人家族で年収1万8850㌦以下という、国が定める貧困層である。1日給食の1食だけという子供、職もましてや住居もなく道で小銭を求める人も後をたたない。アメリカは自由に移動し、より良い職を求められる国とされていたが、国が自宅保有推奨政策を進めた時期に収入に見合わないローンを組み、2008年の経済危機で暴落した不動産価格が十分に戻らず借金ばかり増え、その一方で収入は増えないという人たちは、移住することもできない。

 自由貿易は、アメリカに安い製品をもたらすことで一般家庭の家計に大きな恩恵をもたらしているのは間違いない。しかし、物が安いのは当たり前になり、働けばより良い生活ができると信じてきた多くのアメリカ人の生活は向上しないどころか、どんどん取り残されている。そんな環境の中、北米自由貿易協定(NAFTA)への支持も最悪期は脱したものの、3割以下である。ましてやTPPは、関税を下げることでより安い製品がアメリカに入る、あるいはアメリカ製製品が売れるといった性格のものではない。

 製造業はアジア市場へのアクセスが多少改善するとみられるが、TPPが目的とする知的所有権の保護や規制基準の統一などで最も利を得るのは特に技術関連企業である。ここでもまた勝者と敗者が出ることになる。誰が大統領に選出されようとも、取り残された人々の怒りを消す手立てを見つけることは当分できないかもしれない。それだけに大統領や議会にとってTPP批准は政治生命を傷つけるものとしか映らず、批准のインセンティブは弱い。(敬称略)

(かせ・みき)