共産党は過去の「暴力」認めよ

筆坂元日本共産党ナンバー3と田村自民党政務調査会審議役が対談(1)

民進党、共産と連携で得票激減も

 日本共産党で書記局長代行、常任幹部会委員、政策委員長などを歴任しながら離党した元党ナンバー3の筆坂秀世氏(元参議院議員)と自民党政務調査会審議役の田村重信氏がこのほど、都内で日本共産党の綱領、暴力革命路線問題、民進党と連携した場合の見通しなどについて活発に論じ合った。その中で、筆坂氏は「共産党は暴力革命路線だったことを素直に認め、そのために破壊活動防止法(破防法)が作られたことを率直に認めるべきだ」と強調するとともに、「解党すべきである」と語った。これに対して田村氏は共産党は改憲政党であり、党綱領に「革命」の言葉があるのは「天皇を最後はひっくり返すという心があるからだ」と指摘。民進党が、国民の嫌悪感の強い共産党と連携すると選挙で得票が激減するとの見通しを述べた。司会は早川一郎・編集局次長兼政治部長。

「改憲政党」を隠すな

まず、筆坂さんが日本共産党に入った動機について。

筆坂秀世氏

 筆坂秀世(ふでさか ひでよ)1948年生まれ。兵庫県出身。高卒後、三和銀行に入行。18歳で日本共産党に入党、国会議員秘書を経て参議院議員2期。書記局長代行、常任幹部会委員、政策委員長などを歴任。2003年に議員辞職。05年、離党。

 筆坂 僕は、高校を卒業して三和銀行に入った。就職しないと家が貧しいから、卒業したら就職すると決めていた。そうすると学校の勉強に身が入らないし、ともかく生きる目標が定まらないわけだ。「自分は何のために生まれてきたのかな、人の金の勘定をして俺は一生を終わるのか」と考えると耐えられない気持ちになっていた。

 その時に、民主青年同盟の呼び掛け規約を同じ支店にいた共産党員から渡されて、これを読むと、「君たちが主人公だ」と書いてあった。こっちは、自分をゴミみたいな存在だと思っていたが、「社会を変えていくんだ」と。この地球上には、半分くらいの人が社会主義で暮らしている。今、世界は、資本主義から社会主義へ大きく音を立てて大きく変化している。この進歩の流れに身を投じようではないかと。「主役は君たちだ」と言われ、「そうか自分にも存在意義があるんだ」と思って入った。

 共産党に入ったのは、それから1年ぐらいしてのことだ。今の共産党なら入る人がいないから誰でも入れる。僕らの時代は、簡単には入れなかった。「そろそろ君、共産党に入らないか」と言われ、長い決意表明を書かされ、綱領と規約を認めますと書く。自分が育ってきた家庭や思想の変化を長々と書き、それでやっと「党員候補」になれた。

 自分は生きる価値を見いだした。やっと自分が生まれてきた意味が分かった。当時、やはり革命運動に身を投じるという気持ちがあった。それが一番の入党の動機だ。

2005年に離党したのは。

田村重信氏

 田村重信(たむら しげのぶ)1953年生まれ。新潟県出身。拓殖大卒業後、自民党宏池会勤務を経て自民党本部職員。橋本龍太郎総裁の下で総裁担当。慶應義塾大学大学院法学研究科非常勤講師を務めた。「国家基本問題研究所」の客員研究員。

 筆坂 実は、2003年に議員辞職に追い込まれたが、まあいいやと思っていた。別に、議員になろうと思っていたわけではないし、それまで政策委員長をやっていたし、参議院議員もやっていたから、俺は共産党にとって必要な人間だ、議員バッジを外してからも、大事な仕事をいっぱいやらなければいけないと思っていた。

 ところが、党本部に戻ってくると、何にも仕事がない。完全に干された。もちろん、僕の部下だった連中は辞めた後も慕ってくれた。副委員長の中には、僕がエレベーターに乗っていたら、乗らずに逃げるやつがいた。幹部でない人は、僕が食堂に行くと大喜びだった。「筆さんが来てくれた、うれしいわ」と。

 だが、仕事が一向にない。実は、幽霊党員だった。中央役員は、中央委員会があるから支部には所属しない。一般の党員は、必ず支部に所属しないといけない。ところが僕はどこの支部にも属していない。党費を納めないといけないが、党費を納めるところがない。常任幹部会委員の一人に「おかしいじゃないか、これでは幽霊党員ではないか」と言っても、一向に手を打とうとしない。ああそうか、俺はこの組織には必要のない人間になっているんだな、だったらもうやめようと。

 共産党に愛着もなくなっていたし、党本部だけでなく、共産党も辞めようと思った。そこで離党届と退職届を、志位(和夫委員長)さんの所に持っていったがいなかったので、秘書の机の上に置いておいたら、その秘書が驚いて飛んできた。「そういうことだから。俺、辞めるから」ということで辞めた。

 田村 何が原因で党本部から反発を受けたのか。

北朝鮮と同じリーダーの体質 田村

歴史を全然学ばない共産党員 筆坂

 筆坂 僕も偉そうだったからだ。現に偉い人だったから。先輩議員に対しても、質問がへただなあと言ったりして。

 田村 本当のことを言ってたわけだ。

 筆坂 だから、僕より先輩の議員からは嫌われていた。僕が失脚するとないことをいっぱい言われた。ところが僕より年上だった僕の秘書が、僕の処分に対しておかしいとし、僕より先に離党して退職した。だから、彼に対しては、少し後ろめたさがあった。本当は僕もそうしたかった。しかし、2003年に議員を辞めてから2005年までの2年間、給料欲しさに党の飯を食っていた。本当は、2003年の時点で共産党も辞めて、尻をまくりたかった。

 田村 結局、リーダーに大事なのは、いろいろなことを言ってくれる人をそばに置ける器量があるかどうかだ。マキャベリの『君主論』にも出てくるが、文句を言ってくれる人を近くに置けるかだ。そうでないと周りはみんな茶坊主になってしまう。そうすると、周囲のことが見えなくなってしまう。

 共産党のトップの人はそういう体質なのかもしれない。それは、小沢一郎さんにも言える。アドバイスをしたら、みんな切っちゃう。最後は、人がいなくなり今日になった。筆坂さんみたいに、共産党のためにバンバンものを言って煙たがられたが、そういう人を包含するというか、入れておく度量が組織的にもともとないのではないか。

今も不破哲三さんがトップ

 筆坂 共産党は上から作る党だから。下から作る党ではない。僕が失脚した時、週刊誌が僕のことを「ナンバー4」って書いた。書記局長代行を務めたこともあったので、ナンバー3だったとも言えるが、共産党にはナンバー1しかいない。ナンバー2以下はいないの。すべてはトップだ。宮本体制の時だったら宮本顕治さん。不破体制の時だったら不破哲三さん。僕は今も不破哲三だと思うけどね。

 田村 北朝鮮とか中国、旧ソ連だとかのシステムと一緒だ。

 筆坂さんの『日本共産党と中韓』というワニブックスの本を読んで、これはそうだなと思った。「日本共産党が言っていることは、ひとことで言えば、『日本はとんでもなく悪い国だった。今もそれを反省しない悪い国だ』ということに尽きる。だが、本当にそうなのか。日本だけが悪い国だったのだろうか――。私が日本共産党を離党して以来、考えていることはその点である」と筆坂さんは言っている。そこが非常になるほどな、と思った。

 われわれと日本共産党との違いは、われわれは、日本は頑張っていい国になったな、世界的に見てもいい国になったなと思っている。ところが、共産党の人たちは、ずっと日本は、ろくでもない悪い国なので変革しないといけないと思っている。筆坂さんは世界を見たら、日本はいい国ではないかと疑問を感じたというが。

 筆坂 全くその通り。この間、財布を落としてしまったがちゃんと戻ってきた。これが日本だ。共産党を辞めてからいろいろなことを考えたが、やはり僕たちは歴史を知らないなと思った。僕は、18歳の時に党に入ったから共産党の歴史観でずっと来た。歴史を検証しようということは、共産党にはない。戦前の歴史は「暗黒の社会」、このひとことだ。

 田村 それで終わっちゃう。

「平和の党」の看板おかしい

 筆坂 悪い国だったんだと。悪い国が戦争をやって負けたんだと。それだけだ。戦前のことなんか、全然学ばない。共産党員は、実は歴史を全然学んでいない。これは、僕だけではない。共産党について学ぶことは、「侵略戦争に反対した唯一の党」のひとこと。そのため、治安維持法で弾圧されたんだと。これさえ知っていれば、共産党の戦前の歴史は合格だ。「侵略戦争に反対した平和の党」という演説は、野坂参三なんかがよくやってた。まあ、僕もやったが。(笑い)

 「27年テーゼ」や「32年テーゼ」があるが、これが戦前の綱領的な文書だった。戦後になって、「27年テーゼ」にこういう弱点があった、「32年テーゼ」にこういう弱点があったと言っているが、共産党は全体として肯定的に見ている。

 では、コミンテルン(国際共産党)の分析はどうだったか。例えば、連合国と枢軸国とがある。戦後、ポツダム宣言を受けて、連合国は正しい、民主主義と平和の正しい連合国。枢軸国は悪いやつだと。こういう構図が描かれている。しかし、コミンテルンはそういう風には見ていなかった。要するに、アメリカ帝国主義と日本帝国主義の、言ってみれば、植民地略奪の帝国主義同士の戦争だと見ていた。それが共産党の綱領だった。

 共産党の綱領の立場に立てば、ポツダム宣言はおかしいということになるはずだ。しかも、その帝国主義戦争を利用して革命を起こそうとしたわけだ。レーニンがやったことと一緒だ。それを日本でもやろうとした。そうすると、日本共産党は平和の党ではない。内乱だから。暴力革命をするわけだから。これが戦前の「27年テーゼ」であり、「32年テーゼ」だった。そうすると、「侵略戦争に反対した唯一の平和の党」というこの看板はおかしい。そういうことを今の党員は絶対に知らない。「27年テーゼ」なんて、読まない。僕だって、党を辞めてから読んだんだから。

(続く)