史実確認怠った林教授、日本軍と防衛隊員混同

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (34)

 筆者はバックナー中将の遺族と石原正一郎大尉本人に会い、さまざまな文献に接し、ようやく事の真相に辿(たど)り着くことができた。これが、筆者の沖縄戦に対する基本姿勢だ。

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沖縄県平和祈念資料館の説明では「強制された集団死」と書かれている

 決して教科書や書籍を信じてはならない。実際、全ての学校教科書は沖縄戦戦没者数でとんでもないを犯している。新沖縄県史が「平和の礎(いしじ)」の戦没者数で決定的な詐欺行為を行ったことは既に指摘した。

 さらに、軍人の命令があったから住民玉砕(「集団自決」)が始まったとする教員、文化人、政治家の何と多いことか。今、琉球新報と沖縄タイムスは玉砕を述べる時は必ず「集団自決」「強制集団死」と並記している。この原因をつくったのが、安仁屋政昭氏と石原昌家氏であることは既に伝えたが、これをガチガチに固めたのが関東学院大学教授の林博史氏だ。

 林氏は「強制された『集団自決』『強制集団死』」の項目の中で、集団自決について述べている。

 <渡嘉敷村の兵事主任であった新城(あらぐすく)真順さんの証言によると、3月20日兵事主任を通して非常呼集がかけられて、役場の職員と17歳未満の青年のあわせて20数人が集められた。軍曹は部下に手榴弾を持ってこさせ、1人2個ずつ配り、1発は敵に投げ、1発はいざという時に「自決」せよと指示した。>

 これは『渡嘉敷村史』(1990年版)からの引用となっているが、新城氏は十・十空襲の前後のことに触れているだけで、「集団自決」について自分の役割には一切触れていない。

 林氏の記述はこう続く。

 <手榴弾は防衛隊員が配っただけでなく、軍によって組織的に配布されていたと言える。子どもだった吉川勇助さんによると、(中略)村長は音頭をとり「天皇陛下万歳」を唱和し、それぞれの家族が集まって手榴弾を爆発させた。(中略)残った人たちは日本軍陣地に向かうが追い越され、その近くでまた「集団自決」「強制集団死」をおこなった。>

 ここでも最重要証人であるはずの新城真順氏の説明はなかった。

 90年版の渡嘉敷村史は、拙著『沖縄戦トップシークレット』にあるニューヨーク・タイムズの「神もおののく集団自決」をかなり詳しく引用しているが、その後判明した事実、「つまり、日本兵数人が保護された住民の中に入ってくると怒り狂って日本兵らにつかみかかった」と紹介している。実は、「日本兵ら」とは村の防衛隊であり、アメリカ兵から見れば、重装備した防衛隊と日本兵の区別がつかなかったのだ。林氏の取材はこの程度のお粗末なものであることに注意せよ。