消えた初版の「まえがき」、証言と食い違いも
上原 正稔 (42)
ここ数回にたって、曽野綾子さんの『ある神話の背景』についてその概要を紹介してきた。渡嘉敷島の住民の「玉砕」すなわち「集団自決」について、「極悪人赤松嘉次」の神話を一つ一つ突き崩していくという手法で解明しており、筆者は曽野さんを「ミステリー作家」と呼んでいる。彼女は数々の証人や記録を駆使し、読者をミステリー解明に引き込ませてゆく。
曽野さんは「赤松神話」の元凶となった『沖縄戦・鉄の暴風』(沖縄タイムス社刊)を挙げている。実は初版の1950年8月15日、沖縄タイムス社編、朝日新聞社発行の『鉄の暴風―現地人の手による沖縄戦記』を入手していないことが分かる。
初版の「まえがき」は述べる。
<終戦4年目の49年5月、旧沖縄新報社編集局長、現タイムス理事豊平良顕「監修」、旧沖縄新報社記者、現タイムス記者の牧港篤三「執筆」、現タイムス記者伊佐良博「執筆」の3名に託し、1年を経て上梓の運びに至った>
つまり、『ある神話の背景』の中で曽野さんが太田氏に取材し、太田氏は「わずか3人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を3カ月で調べ、3カ月で執筆したのである」とあるのは嘘(うそ)で、常識で考えれば、第2章の「集団自決」に3カ月かけたと解釈できるが、現地取材の時間があるわけだから、もう少しまともな記事が書けたはずだ。だが、それもしていない。
座間味村の国民学校教頭でいつも軍服を着て、村民から恐れられていた山城安次郎沖縄テレビ社長と、南方から復員した宮平栄治氏から渡嘉敷の「集団自決」の情報を得た、と太田氏は語っているが、山城氏は座間味の「集団自決」命令に関与した張本人であり、戦後も自分の過去を完全に隠してきた男である。
また実際、宮平氏は曽野さんの取材を受け、「太田氏から取材を受けたことはない」と否定している。
そして「まえがき」の最後に「この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」と書かれている。
しかし、この記述は『沖縄戦・鉄の暴風』から完全に消えているのである。このことを「ミステリー作家」の曽野さんはどう解釈するのだろうか。興味のあるところだ。






