岩波が中止を要求、幻となった連載最終稿

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (38)

 筆者が琉球新報記者4人組による信じ難い暴挙の件について会見しなかった理由はただ一つ、親友である嘉数(かかず)武編集長の苦しい立場を考慮したからだ。その時、筆者も嘉数氏も「大江・岩波」裁判が筆者の長期連載に影響を及ぼすことになるとは全く考えていなかった。

 2007年6月18日の1週間前、筆者は「パンドラの箱を開ける時」の内容を発表し、その第2話で慶良間諸島の「集団自決」について真相をありのままに告げることを予告していた。これに気が付いた岩波書店の「世界」編集長の岡本厚氏が週末に前泊博盛記者に連絡し、彼を東京に呼び出し、「上原の連載をストップしてくれ」と頼んでいたのだ。

 さて、筆者の「パンドラの箱」はどうなったかと言えば、4カ月の中断の末、嘉数編集長は前泊記者を連載担当から下ろし、筆者に「必ず集団自決の真相を発表する機会がくるから、しばらく我慢してくれ」と約束し、筆者も妥協し、「慶良間で何が起きたのか」を別のものに入れ替え、「パンドラの箱」を続けることになった。

 だが08年6月、高嶺朝一氏が社長に就任し、筆者の友人であった嘉数氏をバッサリ編集長から下ろしたのだ。嘉数氏の訃報が17年1月10日、琉球新報にベタ記事で出た。彼は「集団自決」の件で唯一、筆者を支えてくれた記者だった。彼が筆者に味方せず連載を「止めろ」と言えば、彼は社長まで昇り詰めたことは明らかだ。最高の親友を失ったまま筆者は「パンドラの箱」を続けた。

 新報の記者たちは「昨日の友」から「今日の敵」に変わっていたから、苦痛の執筆活動だった。08年8月初め、新たに連載担当になっていた名城知二朗記者から「上からの話で、連載を終わってくれないか」との話があった。筆者は「ああ、いいよ」と応じ、最後の物語「そして人生は続く」で、筆者の沖縄戦についての経験を語り、最後の181回で赤松嘉次氏から安里喜順氏への手紙2通で「集団自決」の真相を公開しようとした。

 ところが高嶺新社長を交え編集会議が開かれ、「私は上原をよく知っている。文句を言わせない。最終稿は載せるな」という高嶺氏の鶴の一声で、最終稿が発表されずに終わるという前代未聞の事態に陥った。

 高嶺氏と筆者は表向きは親しかったが、彼は社長に就任すると、やりたい放題の暴挙に出たのだ。全ての筆者の読者はそれを知ることができなかった。