沖縄戦史捏造の原因 『鉄の暴風』をうのみに

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (41)

 1970年9月、赤松嘉次氏と元部下の沖縄訪問から半年後、大阪のホテルで一つの会合が開かれた。第3艦隊の報告会であった。そこで曽野綾子さんは、初めて事件の主人公たち14、15人を見た。死ぬはずだった人々が集まっていた。谷本小次郎氏は「陣中日誌」を配った。この陣中日誌が彼女が入手した第3戦隊に関する文書1号となった。

 一人の隊員が「赤松隊長のことをなぜ間違って書き、なぜ人々はそれをそのまま信じるのか。自分は納得がいかない。真実を書いてください」と激しい口調で訴えた。

 赤松隊長の命令により集団自決が行われたと断定した資料は、50年8月15日発行の『鉄の暴風』(沖縄タイムス編集、朝日新聞社刊)である。

 そして別の資料が70年4月3日のタイムスに発表された星雅彦氏のエッセイだ。星氏は次のように語っている。

 <1、慶良間戦況報告書「渡嘉敷島における戦争の様相」渡嘉敷村、座間味村共編で起筆したが、年月日がなく、赤松が自決命令したとの記録もない。

 2、「鉄の暴風」米軍のヒューマニズムをうたい、古い硬質な文体でつらぬかれ、「自決命令が赤松からもたらされた」と漠然と記されている。

 3、「渡嘉敷島の戦闘概要」50年3月渡嘉敷村遺族会編。村長米田惟好、元防衛隊長屋比久孟祥がまとめたとなっている。

 不思議なことに、1、2、3はどれかを模写したような文章の酷似が随所にある。>

 曽野さんは三つの資料の発生順は①『鉄の暴風』②遺族会による「戦闘概要」③琉球大学図書館にある『戦争の様相』―だと結論している。三つの資料とも米軍上陸の日を3月27日ではなく3月26日と間違っている。

 それならば、全ての資料の基となった『鉄の暴風』はどのような経緯で出版されたのか。曽野さんは著者の太田良博氏にインタビューした。太田氏は沖縄戦当時、教授であった沖縄テレビの社長である山城安次郎氏と、南方から復員した宮平栄治氏から渡嘉敷村の「集団自決」の情報をもらったと証言している。しかし、宮平氏は否定している。山城氏については沖縄在住ブロガーの江崎孝氏の記事が詳しい。秦郁彦編『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』の中で、江崎氏は「自分の過去を全て消してしまった男」として発表している。

 渡嘉敷村の新城(後に富山に改名)真順氏はいつも逃げ回り、曽野さんとの面会も避けている。なぜなら戦時中、兵事主任という重職に就いていたが、戦後、長いこと援護法の適用方に従事していたからだ。曽野さんも援護法に少し触れているが、厚生省は支払った全額返還を求めることはない、と確認していることを指摘しておこう。しかし、あの頃、誰がそんなことを知っていただろうか。