全戦没者20万人の起源、誤謬を重ね死者増やす
上原 正稔 (47)
1946年1月15日、アメリカ海軍軍政府は沖縄本島の人口調査結果を発表した。32万6625人であった。沖縄諮詢(しじゅん)会は44年2月の沖縄本島の人口49万2128人から46年1月の本島人口を差し引いた16万5503人を全住民戦没者数と推定した。
55年、琉球政府は戦時中の人口課長浦崎純氏の証言から疎開人口約6万2000人を差し引き、全住民戦没者数10万3503人を出した。疎開者数に変動がない限り全住民戦没者数に変動はあり得ない。そして、先島の人口は全く頭にないことを忘れてはならない。なぜなら、宮古、八重山にはアメリカ軍は上陸せず、戦場でなかったからだ。
ところが、琉球政府はそのことを忘れ、全住民戦没者数10万3503人に10%の調査漏れを加え、全琉球の戦没者数11万4353人を出すというミスを犯した。琉球政府はそのことに気付かず、数字的誤謬(こびゅう)に誤謬を重ね、軍人軍属2万8228人プラス一般住民戦没者9万4000人の合計12万2228人がつくられた。これに本土兵戦死者6万5908人とアメリカ兵戦死者1万2520人を加え、計20万656人が出された。これが全戦没者“20万人”の起源である。
68年、琉球政府(正確には厚生省)は援護法を拡大適用して軍人軍属戦没者2万8228人以外の一般住民戦没者を戦闘協力者(参加者)という名目で5万5246人を認定した。住民戦死者はこの戦闘協力者と一般住民を合わせて9万4000人とした。
ところが、大田昌秀元琉球大教授(元知事)は一般住民の9万4754人と戦闘協力者5万5246人を別々にして総数25万6656人という戦没者総数出したのだ(『沖縄戦とは何か』)。戦闘協力者を2重に加えている。つまり、2度死んだことにしているのだ。
細かいことだが、県発表の数字では一般住民戦没者は9万4000人だが、大田の発表では9万4754人となっているのはなぜだろうか。5万5246人プラス9万4754人はちょうど15万人で大城将保氏や沖縄県史の沖縄戦通史が主張する県民戦没者15万人と一致。数字のつじつま合わせしているにすぎない。
それにしても恐ろしいことだ。ここで注意しなければならないのは、軍人軍属戦没者とは既に国が認定した戦闘協力者に含まれていることだ。この5万5246人とは靖国神社に奉納されている戦没者のことであり、沖縄戦戦没者総数がこれを超えることはない。なぜなら、渡嘉敷や座間味などの島々でもそうだったが、沖縄本島各地で虚偽の申請書が出されているからだ。筆者は那覇市の援護課の元職員からも“不正”の情報を得ている。
45年6月25日、沖縄本島南部で戦闘が終わると、全ての住民はトラックで次々に北部の住民収容所へ送られた。残った住民は大田氏のように逃げ隠れていた者だけだった。毎日、多くの住民が中北部の収容所へ送られ、住民は絶えず移動してした。