渡嘉敷島“玉砕”の真実、3人組で20人超を殺害
上原 正稔 (27)
金城重明牧師は「集団自決」の日から50年後の1995年、一冊の本を高文研から出版した。『集団自決を心に刻んで―沖縄キリスト者の絶望からの精神史』というタイトルだ。彼は70年4月15日、琉球新報紙上に「渡嘉敷島の集団自決と戦争責任の意味するもの」と題する一編を発表した。あの集団自決から25年後、長い沈黙を破って表に出てきたのだ。そして50年後には東久邇(ひがしくに)稔彦(なるひこ)内閣の「一億総懺悔(ざんげ)」を非難している始末だ。
前回紹介したように、金城牧師は「一人の少年が近づき、どうせ死ぬのだから米軍に斬り込んで最期を遂げよう、と誘った」と語った。真相はどうだったのか。一人の少年とは14歳の山城盛治氏だった。彼は、「渡嘉敷村史」(90年版)で極めて正直に、ありのまま、思い出すまま、語っている。
<阿波連の部落がやられたのは、敵が上陸する前の、3月23日ですが、その時、全部やられて、山暮しがはじまったのです。そこに居た時、明日あたり、玉砕だという話が伝わってきました。(中略)
翌日の朝9時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られた。(中略)男の人のいる世帯では、もう自分の家族は、自分で仕末しよう、ということになった。
女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と言って、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。(中略)
子供は、背中から刺し殺した。子供は、肉が薄いもので、スッと突き通るのです。そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイ(心臓は真下にある)を自分であげさせて、刺したのです。
私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生(金城牧師のこと)をしています。もう一人は現(阿波連)区長、字の世話係り(牧師の兄、金城重英氏のこと)です。>
金城重明、重英、山城盛治の3人組が殺した女、子供、老人らは20人を超えるだろうとの証言を筆者は渡嘉敷村の現地調査で聞いた。これ以上、金城重明牧師の偽りの証言を並べる必要はないだろう。赤松嘉次氏と梅澤裕氏が“玉砕”を命令しなかったことは別の資料と証言でもはっきりしている。山城盛治氏のように“玉砕”を語る住民がほとんどだ。金城牧師のように神に仕える者が己自身に仕えてはならないのだ。