沖縄知事選「プレス自由」 「幹事長」圧勝に怪気炎

小沢氏の言行は支離滅裂

沖縄知事選「プレス自由」 「幹事長」圧勝に怪気炎

沖縄県知事選の当確を受け、抱負を語る玉城デニー氏=30日夜、那覇市(亀井玲那撮影)

 自由党の玉城デニー氏が、急逝した翁長雄志前知事の支持基盤「オール沖縄」の要請を受けて9月30日投開票の沖縄県知事選に出馬し、当選した。「オール沖縄」は共産党などが担い、「しんぶん赤旗」が大きく報じたのに比べ、“本家”ながら影が薄い自由党も月1回ホームページで公表する2ページのPDF機関紙「プレス自由」で扱っている。

 10月発行の同紙第23号は「玉城デニー幹事長沖縄県知事選で圧勝」の見出しで、自由党幹事長の肩書を強調。記事でも「玉城幹事長は平成21年の衆議院選挙で初当選して以来、一貫して小沢一郎代表と行動を共にし、今回の選挙でもぶれることなく『県民の生活が第一』を掲げ…」など、党生粋の政治家とアピールした。

 実際は幹事長職は空席になったが、幹事長を差し出した上、当選しながら党の存在感の埋没は御免こうむりたいところだろう。小沢氏のグループは民主党政権末期に同党を割って出たものの、衆・参院選ごとに数が減り、党名も変えた。2年前に再び自由党を名乗っているが、玉城氏出馬で一時は国会議員数が政党要件ぎりぎり5人の崖っぷちだった(18日に6人)。

 それでも知事選勝利は久々の朗報に違いない。他の野党にはない直系知事を岩手県に次いで二つも誕生させ、党活動の拠点を広げた。同紙「巻頭提言」で小沢氏は「安倍強権政治に『NO』を突きつけた沖縄県知事選」と題して、「沖縄県知事選挙で、玉城デニー自由党幹事長が過去最高の39万6632票を獲得し圧勝しました」と戦果報告する。「オール沖縄」には「出馬宣言」を扱った9月発行の第22号含め触れていない。

 また、小沢氏は「今回の選挙の勝因は、翁長前知事の遺志を継いだ米軍辺野古新基地建設反対という主張が一貫してぶれなかったことです」と指摘。選挙前に「弔い合戦の雰囲気だけでは勝てない」(第22号)と引き締めたが、やはり遺志を訴えた弔い合戦が最高得票の大きな要因なのだ。

 弔い選挙の威力は、劇的な例として1980年大平正芳首相が急逝した衆参同日選がある。前年79年衆院選で自民党は過半数割れの248議席(当時定数511)と惨敗。大平首相に責任論が噴出し、40日抗争と呼ばれる分裂危機になった。対立が尾を引く翌年通常国会で自民党非主流派が野党提出の内閣不信任決議案採決を欠席し、不信任が成立。衆院解散となり、参院選と重なる同日選になった。ところが公示日第一声の後に大平首相は緊急入院。選挙中に帰らぬ人となった。危機から一転、自民党は衆院284、参院135議席と大勝した。

 国内でも地縁の強い沖縄はとりわけ弔事を重んじる。玉城氏を後継指名したとされる翁長氏が死去し、翌月の選挙戦に遺族も加勢、4割いる無党派層の7割をつかんだ。

 知事選勝利に小沢氏は「『一緒になれば自民党に勝てる』という、子供でも分かる簡単な理屈を、なぜ野党は実行しないのか、私には不思議でなりません」と怪気炎を上げている。しかし、小沢氏も一緒になれなくした当事者である。

 それを意識してか、「ささいな感情的いきさつや私怨にこだわって、天下のこと、国民の事、万民のことを考えないようでは、政治家たる資格はありません」と主張するが、自民党に造反し、新進党を壊し、民主党も割るなど行動が正反対では支離滅裂だ。また、小沢氏も玉城氏も民主党政権にいた。普天間基地の辺野古移設案を白紙にして徹底的に見直したが、他に選択肢がないと結論付けたことを忘れては困る。

編集委員 窪田 伸雄