裏切った有識者たち、知事の権力におもねる
上原 正稔 (17)
偽善者には2種類がある。「自分があくどいことをやっていることを知りながら、赤信号、みんなで渡れば恐くない」とふんぞり返る偽善者。「自分があくどいことをやっていることを自覚せず、やりたい放題のことをやる」恥も外聞もない偽善者だ。かつては沖縄タイムスと琉球新報が曲がりなりにも第4の権力ジャーナリズムとして、権力者の腐敗に「物申す」姿勢を見せていたが、今では両新聞は権力の腐敗を覆い隠すブラックジャーナリズムに成り果てている。
「沖縄戦メモリアルを具志頭村に建立」との報道が大々的になされた1991年4月17日は筆者にとって祝福の日となるはずだったが、新たな苦難の始まりとなった。
大田昌秀知事はすぐに宮城悦二郎琉球大学教授に連絡を入れ、「沖縄戦の全戦没者の名を石に刻む計画を私の知事としての目玉事業にするので、君が代表となって実行してくれ」と依頼した。しかし、彼は筆者が1フィート運動で悲惨な目に遭ったことも知っており、さらに大田氏のあくどい性格を誰よりも知っていた。だから、「私には私の仕事があるので」としてやんわりと断った。
そこで、知事は石原昌家氏に県の新たな目玉事業の代表となってくれるよう依頼した。石原氏は飛び上がって喜んだ。知事のお墨付きで大仕事ができるのだ。「上原の沖縄戦メモリアル」など、「どこ吹く風」だった。筆者は抗議のため沖縄国際大学の石原研究室に行ったが、面会を拒絶された。
また、沖縄戦メモリアル建立運動の発起人であった比屋根照夫琉球大学教授から電話が入り、彼は「大田知事から依頼を受けたので、沖縄戦メモリアルの委員を辞退したい」と告げたのだ。
さらにひどいのが、詩人・作家として知られ、反戦平和運動と縁のなかったはずの船越義彰氏の場合だ。彼は大田知事から依頼を受けて、県の目玉事業「平和の壁」建立委員会の重要メンバーになっていた。県庁前で船越氏に出会い、「あなたは沖縄戦メモリアルの発起人のはずだったが、いつの間にか、平和の壁委員会メンバーになっている。人の道に反するぞ」と言う筆者の怒りの声に対し、「何と言っても知事だからね。あなたも委員会のメンバーに推薦しておいたよ」と平然と答えた。
筆者は言葉を失った。筆者の周りの世界がガラガラと崩れていった。筆者は川平朝申、照屋善彦両先生にはこうした情けない実情については黙っておくことにした。彼らのような本物の善人たちには苦労をさせてはならない。筆者は一人で巨悪との闘いを続けることを決意した。