沖縄戦メモリアル構想、反戦平和に乗っ取られる

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (13)

 「平和の礎(いしじ)」をインターネットで検索してみよう。「沖縄県平和祈念公園」には敵味方関係なく、沖縄戦の死者全て24万1468人が刻銘されていることが記されている。だが、この数字が子供ダマシの虚偽、いや、詐欺であることを知る者はいない。そして、ウィキペディアには以下のように書かれている

平和の礎

平和の礎の前で祈る遺族ら

 <ドキュメンタリー作家の上原正稔は、ベトナム戦争で戦没した兵士を弔うためにワシントンDCに建てられたベトナム戦争戦没者慰霊碑のことを知ったが、これには亡くなったベトナム人の名前が全く刻まれていなかった。これをきっかけとして、米海軍歴史家のロジャー・ピノー、川平朝申、照屋善彦、米須清一等と「沖縄戦メモリアル構想」を1990年6月22日、記者会見で発表した。(中略)1994年4月、平和の礎建設検討会が設置され、同年7月に工事が起工され、1995年6月23日除幕された。>

 だが、今、誰も上原正稔(筆者)やロジャー・ピノー、川平朝申、照屋善彦、米須清一らの功績を語ることはない。それはなぜか。その前に、なぜ筆者が90年6月に「沖縄戦メモリアル構想」を記者会見で発表したのか、簡潔に説明しよう。

 83年6月、筆者は沖縄戦のフィルムが米公文書館に手付かずに存在することを知った。素晴らしい発想が浮かんできた。沖縄の全ての人々が1人100円を出してフィルムを集めるのだ。沖縄の十数人の知識人や文化人に会い、協力をお願いすると皆、喜んで協力しようと言ってくれた。筆者は、その頃は新聞で“反戦平和”の活躍をしている文化人は皆、善意の人々だと信じていた。

 話は省くが、後に集団自決の問題や沖縄戦メモリアルの問題で筆者と敵対する関係になる人物の氏名だけはここに記しておこう。大田昌秀、石原昌家、安仁屋政昭、新崎盛暉らの諸氏だ。そして、「私も委員に入れてくれ」と頼んできた福地曠昭(ひろあき)氏がいた。

 全ての準備が整った83年12月8日、1フィート運動を立ち上げた。本土からも問い合わせの電話が殺到し、あっという間に1000万円の大台を突破した。翌年4月に米公文書館に行き、12本の沖縄戦フィルムを精選した。帰ってくると、那覇の公民館で上映会を催した。超満員の盛況だった。そのうちの1本に“白旗”の少女がいた。だが、筆者の仕事はそこまでだった。

 アメリカに出張している間に筆者の追い出し工作がひそかに進められていたのだ。“善意の文化人”らは“悪徳の大泥棒”に変身していた。筆者は自分が創った組織から信じられない仕打ちを受けた。