北村透谷 生誕150年 近代文学に大きな影響

北村透谷研究会幹事 鈴木 一正氏に聞く

 今年は明治時代の文学者・北村透谷の生誕150年目という節目の年に当たる。透谷はあまり知られていないが、明治時代の文学・思想などの分野で先駆者的な存在だった。自由民権運動、島崎藤村に影響を与えたロマン主義、そして、近代的な恋愛至上主義の提示、時代を超えた文芸評論活動、キリスト教に帰依し、日本平和会の創立に参加、平和主義運動を提唱して活動したことなど、さまざまな可能性を持っていた文学者だった。その透谷の研究者で、北村透谷研究会事務局の鈴木一正氏に、透谷研究の現在などについて聞いた。
(聞き手=羽田幸男)

キリスト教信仰と早すぎる死
平和運動でも先駆的活動家へ

北村透谷に関心を持ったのはいつ頃?

鈴木一正氏

 すずき・かずまさ 1947年、千葉県生まれ。法政大学文学部卒。元国文学研究資料館司書。現在、「時空」同人、北村透谷研究会会員。著作に「北村透谷主要参考文献・解題/年譜」(『人生に相渉るとは何の謂ぞ』旺文社文庫)、「武田泰淳研究案内/参考文献/年譜」(『鑑賞日本現代文学26』角川書店)、「北村透谷主要参考文献目録」(『北村透谷―《批評》の誕生』至文堂)、「私の文献探索歴―付、著作目録・年譜―」(『文献探索2008』文献探索研究会)、『波路遥か―平岡敏夫著作目録・参考文献目録・年譜』〈編集〉(青鷺舎)など。

 透谷との出会いは高校の教科書に載っていた「山庵雑記」という作品で、冒頭の「人間の心中に大文章あり」という一節に、強く惹(ひ)かれた。私は周囲から勧められて工業高校に進んだが、透谷の文章を読んで、何とすばらしい言葉かと思った。自分も次第に文学の道に進みたいと思うようになった。

 今にして思えば、工業高校に入ったからこそ、自分の本当に好きなこと、したいことが見えてきたのかもしれない。だが「山庵雑記」は授業では取り上げられなかった。以後、北村透谷とはどんな人物で、どんな作品を書いているのか、関心を持つようになった。

 大学入学後は、透谷の資料を探し求めて、よく神田の古本屋街を歩き回った。卒論も、透谷について書き、その後、紆余(うよ)曲折はあったが、大学図書館・国立研究機関の司書となり、その傍ら透谷の研究資料を探し集め、文献目録を作り、研究者に情報を提供するという作業を長年、続けてきた。透谷資料の収集歴は50年、文献目録作成歴は44年になる。その意味では、北村透谷との出会いが私の人生を変えたと言ってもいいと思う。

北村透谷は盟友だった島崎藤村ほど著名ではないが。

 北村透谷の真価を知るには、その先駆的な業績を知る必要がある。明治時代は、文学にしても思想・宗教・政治にしても、まだ未熟な時代で、混沌(こんとん)としていた。その中で、透谷は文学の芸術性と本質について、明確なビジョンを持っていた。例えば、詩では自由律長詩『楚囚之詩』を書き、島崎藤村などに近代詩の方向性を示し、文芸評論では当時のレベルを超えたドストエフスキーの『罪と罰』論を書いているし、山路愛山との文学論争においても、卓抜な意見を述べている。また、自由民権運動に参加して挫折もしている。

 透谷は一種のヒューマニストで、それがキリスト教の信仰を持つ要因となり、平和主義を唱えて運動を組織したりした。その意味では、平和運動の先駆者でもある。

 その上、当時、同時代の文学者が男女の愛を色恋という次元でしか理解していなかったのを批判し、恋愛至上主義のような近代的恋愛論を展開してもいる。その根底には、人間内部にある「想世界」や「秘宮」を重視し、それを「内部生命」として捉えていたところに透谷の独創性がある。

 このように、透谷は時代を先取りするような文学者だったが、それが成熟するまで生きていなかったので、一部の人々の中にしか知られていないという恨みがある。何しろ、透谷は25歳という若さで自殺しているから、その文筆活動はわずか数年にすぎない。そんな短い期間に実に多方面の活動をしているので、結局、その作品はさまざまな可能性を提示したが、一つの主義や主張に結実しなかったと言ってもいいかもしれない。

透谷研究は現在どうなっているのか。

 透谷の出身地・小田原では毎年、5月16日の命日に透谷祭が開催され、今年も地元の愛好家を中心に70人が参加した。また4年前、小田原文学館では透谷没後120年記念特別展示が開催された。

 現在までに透谷の研究書は100冊以上刊行されており、私は同人誌に透谷の参考文献目録を連載してきたが、毎年、透谷文献は30件以上「生産」されている。かといって研究し尽くされたわけではない。研究の余地はまだ残っており、透谷作品の新しい「読み」も期待される。

 私が透谷研究を志した時、研究書は数冊程度で、ほとんどなかったという状況だった。そのような中で、透谷に関わる資料を収集し、透谷の研究書に掲載された文献目録に漏れていた文献やそれ以降の文献もたいぶ見つけた。それらを基にして、参考文献目録を作成し、同人誌に掲載するようになった。

 私の参考文献作成方法は、まず2次資料でピックアップし、その1次資料を図書館や文学館へ行って現物を確認する。その後、透谷以外の文献目録も作成するようになり、他から文献目録作成の依頼も受けるようになった。

 ただ、研究会自体は、このままでは将来、楽観できない状況だ。最盛期には80人以上の会員がいたが、現在は半分以下になっている。会員には中国、インドの人もいて国際的になってはいるが、高齢化が進んでいる。その点では、悲観している。透谷のような優れた文学者のことが忘れられていくようで寂しい。

忘れられないためには、どうすればいいのか。

 要するに、若い人が透谷に接する機会がないということ。知らなければ、また透谷との出会いがなければ、透谷を研究したいという人が増えるはずがない。

 私は、その原因の一つは国語教育にあると思っている。現在、透谷の文章を載せている高校教科書は数点程度。それも「漫罵」という作品のみで寂しい限りだ。これでは、透谷研究の将来はない。それだけ透谷の魅力は大きいものがある。青少年時代に透谷の文章に触れることは重要だと思う。何しろ、透谷の文章は名文と言ってよく、その文章を読むと、心を鼓舞されたりするので、ぜひ教科書に掲載され続けることを望みたい。