アブドル・バハ没後100周年式典に参加して
バハイ全国精神行政会副議長 元関西大学教授 野口メアリーさんに聞く
バハイ信教はペルシャ(今のイラン)で19世紀半ば、バハオラ(1817~92)と彼の先駆者であるバブ(1819~50)によって創始された一神教。イスラム教シーア派のイランでは初期から迫害され、バハオラはイラク、トルコを経て当時のオスマン帝国のアッカ市に追放され、その近辺で一生を終えた。
現在、バハイ本部はイスラエル・ハイファ市のカルメル山にある。バハオラの没後、遺言で後継者に指名された長男のアブドル・バハは、生涯の大半を囚人として過ごす。青年トルコ人革命により1908年に釈放されると、64歳の彼はエジプト、ロンドンやパリ、ニューヨークを訪れてバハオラの教えを説き、教えは35カ国に広まった。
バハイが世界宗教に発展するのに大きな役割を果たしたアブドル・バハの没後100年に当たる昨年、ハイファでの記念行事に、日本を代表して参加した野口メアリー・全国精神行政会副議長に感想などを聞いた。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
心に響く月夜の祈り
「聖約」守り宗派分裂せず
大きな平和も小さな平和から
コロナ禍での開催でしたが。
アブドル・バハの没後100周年を記念する行事は昨年11月21~28日で、万国正義院は当初、全ての国の全国精神行政会の全メンバーを招集していたのですが、コロナ禍のため、各国・地域から代表2人が招かれることになり、200以上の国や地域から約600人が集まりました。イスラエルは海外からの入国を11月1日から認めたのですが、30日に再び禁止したので、開催は奇跡的でした。
記念の式典は25日から27日までの三日間で、参加者は祈りと瞑想(めいそう)に没頭し、アブドル・バハの聖跡を回りました。
第1次世界大戦前、アブドル・バハは効率的な農業を始め、大戦中に、作物をバハイだけでなく周りの人たちにも提供しました。その功績で、当時パレスチナを支配していた英国政府から騎士の称号を与えられました。
アブドル・バハは重いリウマチを抱えながら、世界の未来のために欧米を回ったのです。その上、多くの人に手紙を書き、ハイファで進められていたバブの廟(びょう)の建設を、監禁されていたアッカから指示していました。
11月25日はアブドル・バハが定めた「聖約の日」です。聖約はバハオラの遺訓に述べられている継承の系統と同義で、バハオラから息子のアブドル・バハ、次に彼の孫のショーギ・エフェンディ、さらに万国正義院へと続きます。バハイが宗派分裂しないのは聖約を守っているからです。この日、参加者は聖約についての講演を聞いてから、アッカの聖地を訪れ、聖約について考えました。
アブドル・バハが亡くなられた11月27日の前日には、逝去された部屋を順番に訪問し、お祈りしました。アブドル・バハが亡くなったのは真夜中の1時で、万国正義院のメンバー、代表者と本部のスタッフ約1400人が26日の夜にバブとアブドル・バハの廟の横にある庭に集まり、彼を偲(しの)びました。昇天された時刻には、万国正義院からのメッセージが読み上げられ、数カ国語で祈りが唱えられ、その後、全員が彼の廟を静かに一周しました。
参加していかがでしたか。
いろいろな国の人たちと交流できたのがよかったですね。民族衣装の人たちも多く、人類の一体性、世界平和を目指して努力している人たちですから、ミニ国連のようでした。26日の夜の式典は祈りに没頭し、各国語での祈りがあり、とりわけ、月夜でのアラビア語の祈りはすごく心に響きました。
アブドル・バハの廟が建設されているそうですね。
バブの廟とバハオラの廟の中間地点に、2年後の完成予定です。アブドル・バハの謙虚さを示すため、地上部分は小さな丘のようで、周りは芝生で覆われ、天窓が付けられ、内部に日の光があふれる構造です。
アブドル・バハは日本人に大きな期待を寄せていました。
日本人は勤勉で、道徳的、精神的に優れていると感じていたのでしょう。私も長年、日本に住んで、同じように思います。日本人への手紙などを収録した編纂書『燎原の火―日本』でも、日本人を高く評価しています。
例えば、視覚障害者の福祉や教育に貢献した鳥居篤治郎もアブドル・バハと文通しています。鳥居氏は1916年にバハイ教の布教に来日したアグネス・アレクサンダーと出会い、人間形成・世界観に大きな影響を受けました。そして、アブドル・バハに励まされて大学で学位を取り、61年に視覚障害者総合福祉施設京都ライトハウスを創設し、館長に就任しています。
【メモ】高校時代、メソジストの人道主義的な牧師の影響を受けたメアリーさんは、反戦運動などに参加しながらも、自分は悪い人間ではないか悩んだという。それがバハイに触れ、アブドル・バハの言葉「日々、少しずつ」から、自分は弱い人間だが、少しずつ向上していけばいいと思い、すごく楽になった、という。日本に根付いたコスモポリタンで、心の成長と社会の改善を人生の二大目標に、定年後の人生を楽しんでいる。