パニックに陥る住民、玉砕の連絡が飛び交う
上原 正稔 (6)
渡嘉敷村落の西側の恩納ガーラには古波蔵惟好村長、真喜屋実意先生(前村長)、徳平郵便局長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。
1944年2月22日、国勢調査によれば、村の人口は1447人であり、「数百人」とはその一部にすぎないことに注意しよう。
古波蔵村長らの有力者会議が開かれ、「自決の他はない」と皆、賛成し自決が決められた。
ある防衛隊員は「戦うために妻子を片づけよう」と言った。
村の兵事主任、新城真順は前日掘ったばかりの北山陣地に行き、赤松嘉次隊長に「住民をどこに避難させたらよいか」と指示を仰いだ。赤松隊長は「陣地北側の盆地に避難させてはどうか」と言った。そこがウァーラヌフールモーだった。
その後、恩納ガーラに防衛隊員がやって来て「赤松隊長の命令で村民は全員、直ちに北山のウァーラヌフールモーに集まれ」と語った。別の防衛隊員は「自決するから北山に集まれ」と言った。
14歳の金城武徳は敵の上陸が始まると、部落内の防空壕を出て、神社の後ろを通って、父が恩納ガーラに造ってあった避難小屋を目指した。夜、土砂降りの中、食糧を置いてある恩納ガーラに伝令がやって来た。あっちこっちの避難小屋を巡り、「軍の命令で北山に避難せよ」と伝えた。
16歳の小嶺勇夫はイチャジシ(恩納ガーラ)の避難小屋で生活を始めていたが、村の青年がやってきて「村長命令で上の本部に全員集合せよ」と言った。14歳の山城賢治はウビガーラから恩納ガーラに移動したが「明日あたり玉砕だ」という話を聞いた。30歳の小嶺国枝はイチャジシの避難小屋にいたが「玉砕するから北山に集まれ」との連絡を受けた。
グリースガイ(死に装束)をしてウァーラヌフールモーに向かった。夜半から28日の明け方にかけて、数百人の老若男女が雨の中、恩納ガーラの上流から険しい傾斜面の道なき道を黙々と登って行った。
ウァーラヌフールモーは北山の山頂すぐ北側にあり、馬の鞍(くら)のような形をしていて、長さ約30㍍、幅5・6㍍で北に突き出ていて、その両端は深さ3、4㍍ほどの溝を成し、その先は人が下りられないほどの深い渓谷が海に続いている。






