米軍が渡嘉敷上陸、避難壕に逃げ込む住民
上原 正稔 (5)
渡嘉敷村史と沖縄県史10巻、陣中日誌からウァーラヌフールモーの惨劇を追ってみよう。
3月23日午前10時ごろ。数十機の爆撃機が渡嘉敷上空に姿を見せた。住民も兵士もそれが米軍機だと気付くものはいない。突如、空襲が始まり、民家や陣地に爆弾と焼夷(しょうい)弾が落とされ、至る所で山火事が発生した。延べ300機の空襲は午後6時まで断続的に続き、島は大混乱に陥る。住民は麓など各地に用意していた避難壕(ごう)に逃げ込み、陸戦になじみのない第3戦隊の兵士らはわずかばかりの銃兵器で対空射撃を試みたが、この日戦死者11人、負傷者10人を出し、散々な日となった。これが沖縄戦の始まりとなった。
3月26日。早朝、慶良間に集結した敵(ブランデー提督)の艦隊は慶良間各島に猛烈な艦砲射撃を加え、第77歩兵師団が慶留間、阿嘉、座間味の島々に上陸した。渡嘉敷島の大町大佐が島を脱出する機会は失われた。
赤松戦隊長は出撃準備のため、夜明け前に舟艇を浜に出し、大町大佐に出撃命令を求めたが、大町大佐は「ここで手の内を晒(さら)せば、本島に船舶団の作戦に支障が出るので船を戻せ」と命令。だが、時既に遅く、敵の艦砲射撃が始まっている。
赤松隊長は涙をのんで「自沈」を命令。こうして事態は島の全ての人々の予測を超えた方向へ進んでいった。
27日。海上挺身戦隊とは、爆雷2個を搭載した舟艇で、夜間敵艦船に体当たり爆破する目的で編成された特攻隊のことだ。生きて帰ることはないはずだったが、特攻艇を自沈した今、にわかづくりの陸戦守備隊として島に立てこもることになった。
午前2時、赤松戦隊長らは渡嘉敷村落の北の北山(にしやま)の周囲に守備陣地を敷くことになり、山道を上った。
午前9時、アメリカ軍は艦砲射撃の下、留利加波、渡嘉志久、阿波連に上陸を開始。渡嘉志久を守備する第3中隊の残存部隊は抵抗したもののほとんど戦死。阿波連を守備する第1中隊は阿波連を撤退する時、アメリカ軍(A中隊)の待ち伏せに遭い、多数が死傷し、生き残った者は阿波連東の山中に四散することになった。
一方、村の防衛召集兵(以下、防衛隊と呼ぶ)は3月23日の空襲以来、住民の避難や消火作戦でてんてこ舞いの忙しさだったが、前夜から「敵が上陸して危険だから恩納ガーラに移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。