1964年の東京五輪と沖縄
沖縄大学教授 宮城 能彦
日の丸を振り聖火歓迎
「我々も同じ日本人」と確認
1964年の東京オリンピック。
当時私は4歳だったので、直接の記憶がないのが残念である。しかし、当時の沖縄社会の雰囲気や、沖縄県民にとって64年のオリンピックがどんな意味を持つかという話は多くの先輩たちから聞いてきた。
一昨年の大河ドラマ「いだてん―東京オリムピック噺(ばなし)―」では、聖火を何としてでも沖縄で走らせ、沖縄の人たちに日の丸を振ってもらうのだという田畑政治の活躍が描かれていた。私はそれに素直に感動し、今でも時々録画していた映像を見ることがある。
64年のオリンピックは、確かに、沖縄を含めた日本人が一丸となり成功させた日本の歴史に大きく残るイベントであった。そして、沖縄県民(当時は「県民」ではないがあえて県民としたい)にとっては、「我々も同じ日本人なのだ」という、日本人としてのアイデンティティー確認のための祝祭的時間でもあった。
米国民政府は使用黙認
台風のために1日遅れで台北からやってきた聖火の歓迎式典は、「沖縄があたかも日本に『復帰』したかのような喜びに沸き返った」と報道された。
最初の式典は、那覇市にある奥武山陸上競技場。式典に集まったのは4万人である。聖火台に火が灯(とも)った後、「君が代」が演奏され日本国旗が掲揚された。多くの沖縄県民が掲揚される日の丸を見て感動していた。
今では「あたりまえ」の光景が、当時の沖縄では「ありえない」式典であったのだ。
沖縄戦後、沖縄を統治していた米軍は、沖縄における日本国旗の掲揚を全面的に禁止していた。しかし、沖縄の、特に教師たちの懸命の要請によって、ようやく52年には「政治的な意味を伴わない限り、個人の家屋または個人集会における国旗の使用を禁止するものではない」と日の丸の掲揚に関して寛容的になった。
実は、その年は4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して、沖縄が正式に日本から切り離された年である。おそらく米軍にとっては、沖縄の人々を懐柔するための妥協策だったのだろう。
同じ年の5月26日、沖縄県教職委員会が、学校内での日の丸掲揚を米国民政府に請願。しかし、「学校は政府機関」であるとして不許可になっている。
その後、沖縄県教職委員会の強い運動と米国民政府との駆け引きが行われた。
ようやく61年に、沖縄におけるすべての権限を持つ高等弁務官は、公共建築物(琉球政府、立法院、裁判所、市町村役所、学校など)における日の丸掲揚を法定の祝祭日に限って許可した。オリンピックの3年前である。
ところが、当時の聖火リレーの日程は法定の祝祭日ではなく、日本国旗掲揚が許される日ではなかった。それにもかかわらず、沖縄中に「日の丸を振って聖火を迎えよう」という機運が高まっていき、結局、米国民政府もそれを黙認せざるを得なかったのである。当時の写真を見ると、日の丸を振っている人たちの本当に嬉(うれ)しそうな笑顔が印象的だ。
名護市の東海岸。有名な辺野古地区よりもさらに北に行ったところに、嘉陽という集落がある。そこには、大きな石碑が五つ建っており、石には「聖火宿泊碑」と一文字ずつ掘られている。嘉陽は那覇を出発した聖火が一泊し、折り返した地点。それは、当時の沖縄県民が「我々も日本人なのだ」という確認をし、日本への復帰に大きな希望を抱いた記念碑でもあるのだ。
五輪開催誇れる日期待
あれから57年。今回のオリンピックはコロナ渦中で多くの会場が無観客となってしまった。そんな中で、「観客を入れるべきだ」という人から、「今からでも中止すべきだ」という人までさまざま。
かつては、沖縄を含めた日本人が一体感を感じたオリンピックであった。高度経済成長を加速させるエネルギーにもなった。しかし、今、オリンピックが国民を分断しているようにも見えてしまう。
この原稿が掲載される頃、オリンピックはどうなっているか心配である。しかし、ブルーインパルスの雄姿をテレビで見た今、私はかなり楽観的になっている。日本だからこそオリンピックができたのだと誇れる日が来ることを信じたい。
(みやぎ・よしひこ)
(サムネイル画像:Wikipediaより)











