知ってほしい「等身大」の沖縄

沖縄大学教授 宮城 能彦

来年、日本復帰から半世紀
同じ国民として問題の解決を

沖縄大学教授 宮城 能彦

沖縄大学教授 宮城 能彦

 年が明け、2021年になった。来年は沖縄が日本に復帰して半世紀となることに、ふと気が付いた。戦後、米軍統治下の沖縄に生まれ育った者には感慨深いものがある。米軍統治下にあったのは、1945年から72年までの27年間。沖縄が日本に復帰した後の方が、倍近く長くなる。

 一昨年末は、首里城が焼失してしまった時の、若い人たちの感情、首里城に対する思いの大きさを見て驚いた。私たちのように、首里城が再建される前を知っている世代よりも、生まれた時から首里城がある若い世代の方が、思い入れが強いのだ。

受け入れ難い「否定論」

 生まれた時から普通に日本である沖縄で生まれ育った、今の50歳以下の「復帰後世代」にとって、沖縄の本土復帰は、具体的なイメージを持つことができない「歴史上の出来事」でしかない。

 考えてみれば、私が大学生であった80年代前半の50年前といえば、昭和5~15年の30年代。29年にアメリカから始まった世界大恐慌で世界中が混乱した時代である。31年には満州事変、32年は5・15事件、33年には日本が国際連盟脱退を表明、ヒトラーがドイツの首相に就任している。要するに、今の大学生にとっての「日本復帰」は、私にとっての満州事変や5・15事件と同じである。身近に感じることができないはずである。

 他方、戦後の沖縄は、米軍基地をはじめ、さまざまな政治的・経済的問題を抱え続けている。そのために、それらに関する「論争」や、いわゆる「平和運動」「住民運動」が今日まで続き、年配者にとっては「そんなに昔とは思えない」のであろう。辺野古の埋め立て問題がその象徴である。

 20年くらい前から「日本復帰を再評価しよう」という動きがある。その一つが琉球独立論者たちであり、そして復帰否定論者たちである。その中の「日本復帰は県民が必ずしも望んだものではない」という論調は、私には受け入れ難いものである。

 確かに日本復帰は、沖縄県民が望んだとおりの「内容」ではなかった。しかし、県民は強く日本復帰を望んだのであり、復帰後も年々その満足度は向上している。それは疑うことのできない事実である(そのことについては、近々具体的な資料を用いて詳しく書こうと思う)。

 しかし、既に「歴史」でしかない「日本復帰」に関して、若者がリアルに考えることは難しい。復帰に託した多くの沖縄県民の想いが若者へ継承されているとは思えない。

 ましてや、県外の人たちに、沖縄が日本に復帰したことの意味を一緒に考えてもらうことは、さまざまな意味でますます難しくなっている。

 ところがそれは、必ずしも悪いことばかりではない。

 例えば、一昨年末に首里城が炎上した後に、全国各地から応援の声と寄付金が届いた。同じ日本の一員としての沖縄県は日本国民の中に確立しており、ありがたいことに、沖縄が日本であることは、むしろ当然すぎるくらい自然なことなのである。

 その一方で、沖縄の米軍基地問題に関しては、沖縄が大好きで何度も沖縄を訪れたり、移住してきたりした人ほど口を閉じてしまう。県外出身者が思わず本音を言ってしまうと、「沖縄の心がわからない大和人は黙れ!」と怒鳴られてしまうからだ。

 沖縄では、相変わらず、「本土」の人たちに拳を上げることによって沖縄を理解させようという力が強い。マスコミがその代表である。

 しかし、私は逆効果だと思う。

 沖縄を愛してくれる人たちが全国にこれだけ多くいるのに、その人たちに拳を振り上げてはならない。沖縄に大きな問題が存在するのならば、同じ日本の国民として一緒に考えてもらう方法を見いだすべきである。

自らの意志で復帰選択

 そのためには、「等身大の沖縄」「等身大の沖縄の歴史」「普通の沖縄の人の暮らしや考え」を知ってもらうことがたいせつだ。

 その思いが募り、去年『ぼくたちの1972年―沖縄の少年と家族の日本復帰―』というエッセイ本を書いた。ペンネームでの出版だが、沖縄のことを「等身大」に理解してくれる人が少しでも増えてくれたらと思う。ウチナーンチュは自らの意志で日本に復帰することを選択したのである。

(みやぎ・よしひこ)