沖縄戦で住民の犠牲は減らせたか

エルドリッヂ研究所代表・政治学博士 ロバート・D・エルドリッヂ

国際会議で論議し教訓に
設定すべきだった非戦闘地域

ロバート・D・エルドリッヂ

エルドリッヂ研究所代表・政治学博士 ロバート・D・エルドリッヂ

 沖縄戦当時、医療部隊の一員であったヘンリー・ベネット中佐は1946年初め、「紛れもなく、沖縄群島における軍事作戦は、島嶼(とうしょ)地域における過去の争いよりもはるかに大きな混乱、破壊、犠牲をもたらし、人々にとって悲劇としか言いようがない」と記した。

 この見解は思い付きではなく、米海軍協会が発行する米軍で最も権威ある雑誌「プロシーディングス」に掲載されている。鳥取県で生まれ育ったベネットは後に、世界的に有名な解剖学・生物学者になった。特に沖縄の住民の窮状に対する思いは強く、米国の沖縄占領について数々の提言をした。

今も各地で民間人虐殺

 あまりにも多くの非戦闘員の犠牲者を生んだため、沖縄戦は世界史の中で無意味な民間人虐殺の最後の例となるはずだったが、残念なことに今でも似たような悲劇は日々各地で起きている。

 筆者は最近、沖縄出身の女性を含めた日本人の若者と、75年前の4月1日に始まった沖縄戦を再現するシミュレーションを行った。しかし今回は、住民の保護を、日本側の守備(や米軍の作戦)にとって最重要の課題に設定した。

 自主的か、そうでないにかかわらず、戦争に巻き込まれたり、病気や栄養失調、または、疎開の途中に船を沈められたりして命を落とした人々は非常に多かった。そのため特に、どうすれば住民の命をより多く救うことができたかを考えたかった。いまだに犠牲者の正確な数は分かっていないが、民間から徴集された約3万人の防衛隊を含め、12万人以上と推定されている。沖縄県糸満市の沖縄県平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」には14万9000人の住民の名前が刻まれているが、病死など戦争と直接関係のない人も含まれている。

 今年は第2次世界大戦終結から75年という節目を迎えることから、こうした疑問について考える良い機会だと考える。沖縄県をはじめ、大学、弁護士グループ、NPO団体、戦争法を扱う国際組織など関連組織が共催となり、どうすれば当時またはその後の紛争で民間人の犠牲を少なくすることができたのかを考える国際会議を開催することを提案したい。

 民間人の犠牲を減らすことは可能だったと考えている。沖縄本島北部は戦略的にも軍事的にも重要でなかった地域で、本部半島以北は非戦闘地域に指定されるべきだった。すなわち、守備隊は防衛せず、米軍が攻撃しない「オープンシティー」という概念だ。

 一般的に、やんばる地方として知られる沖縄本島北部の山間地帯は、大規模な軍事施設を維持できないため、日本軍にとっても米軍にとっても重要ではなかった。

 だが、大量の民間人が計画的に食糧、生活必需品、テント、建築資材などを持って避難することで、民間人を受け入れるスペースはあった。避難完了時に、日本軍はそこから部隊を撤退させ、日本政府は国際赤十字や中立国家スイスを通じて非戦闘地域を宣言し、米国とその同盟軍に攻撃しないよう呼び掛けることができた。こうすることで、「アイスバーグ作戦」を指揮したアメリカ第10軍は、この地域を原則として攻撃しない義務が生じる。

 これができれば、双方にウィンウィンの状況を作り出すことができた。日本軍は、南部に守備隊を集中させ、北部には民間人を安全に避難させる。攻撃する側の、筆者の父が所属した米軍にとっても良いことだ。戦闘地域で民間人の保護に気を遣う必要はなく、戦闘に集中できた。しかし、現実はそうではなかった。

避けられた悲惨な事件

 実際、民間人の一部は自決を強いられたり、方言を話したため、降伏しようとしたために射殺されたり、スパイとして処刑されたりした話はよく知られている。こうした数々のエピソードの信憑(しんぴょう)性や、その規模については疑問の声があるが、こうした不幸なことがある程度、発生したのは否定できないと思う。いずれにしても、民間人の北部疎開がきちんと行われていれば、その悲惨な事件は避けることができた。

 ほかにも問題はある。拘束された住民に対する性的虐待や暴力、文化財の保護、捕虜や遺体の扱い、沖縄戦の最中とその後に収用された土地などの問題なども、今後の国際会議で論じられるべきだ。それ以上に、現在も起きている非戦闘員の犠牲を減らすための絶え間ない努力が必要だ。

 これこそを沖縄戦の真の教訓とすべきだ。