琉球新報の「出自」 米軍が創刊した宣撫新聞

《 沖 縄 時 評 》

人民党の巣窟、左翼が闊歩

琉球新報の「出自」 米軍が創刊した宣撫新聞

琉球新報の社屋=沖縄県那覇市天久

 那覇市の与儀公園に隣接する沖縄県立図書館は、「知識の泉」だけでなく、散策のついでに新聞を読みに来る人もいて「憩いの場」の趣がある。

◆大田氏の著作が証す

 数年前、筆者は蔵書を見て回っていて辻村明、大田昌秀共著の『沖縄の言論 新聞と放送』と題する書籍に出合った。発行元は「南方同胞援護会」。本土復帰前の1966年3月の発刊で、沖縄の新聞史を詳述しており、興味深いものがあった。

 琉球新報と沖縄タイムスの報道姿勢について2015年、作家の百田尚樹氏の発言が「偏向論争」を巻き起こしたが、そんな偏向の指摘を受ける背景が同著で知れるように思われたからだ。とりわけ琉球新報(以下、新報)がそうだった。

 著者の辻村明氏は東大教授などをつとめ、マスコミ論に定評があった(10年没)。大田昌秀氏は、言わずと知れた革新系の元沖縄県知事で左翼界の重鎮。1960年代に東大新聞研究所で辻村氏(当時、助教授)と沖縄メディア史を研究したのが同著だった。

 大田氏はその後、琉球大学教授となって教え子を地元紙に送り込み、定年退職した編集幹部が今度は大学教授に“天下り”して次世代を育成する沖縄特有の「左翼メディア人脈」を築き上げた。

 ところが、『沖縄の言論』が記述する新聞史と、新報が描く自社の歴史、とくに創刊の経緯が大きく違っていた。皮肉にも同著は新報の左翼偏向の「原点」を浮き彫りにしていた。

 では、新報はどのような経緯で創刊されたのか。新報自身は「創刊は1893(明治26)年。廃藩置県により沖縄県が設置された『琉球処分』から14年後、県民の意識改革を主張する尚順、太田朝敷ら20代の知識人を中心に発刊されました」(富田詢一社長=2013年9月15日付「創刊120年挨拶」)とする。

 尚順は琉球王国の最後の国王、尚泰王の4男で、本土留学の太田朝敷らと沖縄近代化のため琉球新報を設立した。これは紛れもない事実だ。だが1940年、戦時中の「一県一紙」の新聞統合で姿を消した。

 ところが、富田社長は「戦火のまだ収まらない45年7月、収容所のあった石川でガリ版刷りの『ウルマ新報』を発行して再出発しました」「生き残った元社員が集まり、サンフランシスコ講和条約締結の51年9月、『うるま新報』から『琉球新報』に改題、題字の復活を果たしました」と述べ、「再出発」「復活」と表現し、明治からの伝統ある新聞として描いている。

◆素人を集め新聞編集

 これに対して『沖縄の言論』は次のように言う。

 「戦後の新聞史は、現『琉球新報』の前身である『ウルマ新報』からはじまる。同紙が創刊されたのは、一九四五年七月二五日、当時、沖縄の中心地であった中部地区の石川市で創刊された。当初の社屋は、米軍から払い下げられたテント小屋だった」

 創刊には島清、糸州安剛、城間盛善らが携わったとした上で、「しかし、事実上の創刊者は、米占領軍であって、沖縄人が最初から主体的に企画し創刊したとはみられない。つまり、『ウルマ新報』は、米占領軍が島民に指示してつくらせたものであった」と記している。

 戦後の琉球新報の創刊者は「生き残った元社員」ではなく、米占領軍だった。

 「新聞創刊に加わった高良一氏(現那覇市議会議員)の語るのによると、かれらは米軍によって軍政府の情報課へ引っ張られ、新聞をやれといわれた。しかし、米軍の宣伝をする新聞をつくるとスパイ扱いされるからご免だとおもったが、『断ると銃殺されるかもわからず、否応なかった』という」

 高良一氏は実業家で、新聞とは縁もゆかりもなかった。沖縄戦終息のわずか1カ月後で、米軍は日本軍の再上陸を極度に警戒していた。それで宣撫(せんぶ)工作のために「ウルマ新報」を作らせた。

 初代社長に就いた島清氏は社会主義者で、日本社会大衆党那覇支部を結成していた。2代目は瀬長亀次郎氏(後の沖縄人民党委員長、日本共産党副委員長)。新聞編集に集められたのは戦前の新聞人でなく素人ばかりで、幹部に社会主義者が登用された。

 ウルマ新報が米軍によって創刊された経緯は、琉球政府文教局の『琉球史料』にも記されている。

 「マリン将校ウエイン・サトルス大尉が主任にとなり、二世の小谷軍曹等によって、住民に対し戦況や国際情報を提供する目的で週刊紙の編集が計画されたが思うように進まなかったので、民間人にニュース係を任命し、新聞社の工場関係の旧職員を集め、週刊紙の刊行が計画された」

 マリンとは海兵隊のこと。米軍は宣撫工作に反(日本)政府的だった社会主義者が適任と考え、島清氏らを使った。これは本土で獄中の共産党員らを釈放したのと軌を一にしている。

 連合国軍総司令部(GHQ)は45年10月、「10・4指令」を発し、政治犯(治安維持法犯)を釈放したが、その中には傷害致死、死体遺棄などの純刑事犯だった宮本賢治氏(後の共産党委員長)もいた。ソ連が連合国の一員だったので、米軍は彼らを味方と錯覚し、共産党員らも米軍を「解放軍」として歓迎した。

 共産党員らは新聞社にも浸透。読売新聞社では労組が正力松太郎社長らの「戦争責任」を追及する読売争議を起こし経営に介入。「赤い社員」(正力氏)が闊歩(かっぽ)し、紙面で「人民の機関紙たること」を宣言、これを共産党は支援した(46年10月、労組幹部を退社させ正常化)。

◆創刊125年は経歴詐称

 こうした動きに呼応するように沖縄では47年7月に沖縄人民党が結成され、初代委員長には「うるま新報」(創刊から10カ月後の第45号から題字を平仮名に変更)の前原地区支局長の浦崎康華氏、常任委員に瀬長氏が名を連ねた。「うるま新報」にも「赤い社員」が闊歩していたのだ。

 ところが、48年8月の沖縄人民党の第2回党大会では浦崎、瀬長の名は「表面から消えた」。東欧の共産化が進み、東アジアでも米軍が警戒し、「『うるま新報』の生い立ちの事情・性格からして、その社長が公然と政治活動をするのは許されない事情があった」。それで結局、瀬長氏は退社し、政治活動に専念する。

 「後年、瀬長氏がみずから記すのによると、『うるま新報』の各地区の支局長は、すべて人民党員であったし、かれらは新聞社のために米軍から供与されたジープを人民党の組織づくりにフルに活用したという」

 これが『沖縄の言論』が描く「うるま新報」の実態だ。支局長が全て人民党員とは驚くべきことだ。しかも読売とは違って「赤い社員」が温存された。実際、新報労働組合は69年、教宣部長の配置換えに反対し新聞社としては前代未聞の17日間もストを打ち、休刊を余儀なくされた。

 米軍は「赤い鬼っ子」を生み出したのだ。米占領軍による創刊、そして人民党(共産党)の巣窟。それが琉球新報の出自(生まれ)の真相だ。尚順らが創刊した琉球新報とは全くの別物なのは明らかだ。

 それが51年、商標登録も定かでない米軍統治下で「琉球新報」と改題。68年2月から発行の通し番号を戦前の琉球新報の分を併せて記載。同年1月31日付は「第6815号」だったが、翌日には「第21058号」と一夜にして14243号も積み増しされた(真久田巧著『戦後沖縄の新聞人』沖縄タイムス社)。

 80年代には「長い歴史をもつ琉球新報は県紙」と唱え、拡販に利用。2013年は「創刊120年」と大宣伝した。来年18年には「創刊125年」を自賛するのだろうか。

 昔は米軍の宣撫新聞、今は左翼の宣撫新聞。それを「伝統ある県紙」と権威付け正統性を装って「偏向」を平然と続ける。そんな構図が浮かび上がる。

 『沖縄の言論』を著した大田氏に学者としての良心があるなら、教え子ら新報幹部に「創刊125年」の経歴詐称をやめさせるのが筋ではないか。左翼団体は大田氏を「ノーベル平和賞候補」に推しているというが、経歴詐称を放置し歴史捏造(ねつぞう)に手を貸すようでは物笑いの種になるだけだ。

 増 記代司