ヌオン・チアと母 革命は家族と宗教に負けた

山田 寛

 

 1970年代のカンボジアで超過激共産主義革命を実践したポル・ポト政権のナンバー2、ヌオン・チア元共産党副書記が今月初め93歳で病死した。

 ポル・ポト革命は、国民150万人以上を直接、間接虐殺した暗黒革命だった。ヌオン・チア元副書記は、ナンバー1のポル・ポト元書記以上に革命推進の柱で、1万6000人が虐殺された中央監獄の総責任者でもあった。

 2009年に開始された同政権を裁く特別国際法廷で、すでに住民強制移住の罪で終身刑が確定、少数民族などの集団虐殺罪につき一審で終身刑判決を受けて控訴中だった。大虐殺全体に関わる審理はまだ残っていた。

 チア被告死亡で、残るはキュー・サムファン被告(88)だけ。彼は元国家元首だが実質は“番頭”役だったから、裁判はほぼ終わった。

 中国が政治・経済・軍事の全面で支えた革命だが、中国の責任などは最初から問われない裁判だった。問題はいっぱいだが、ここではこの革命と家族と宗教について書きたい。

 拙著『ポル・ポト〈革命〉史】(04年)でも言及したが、彼らは家族の絆や宗教が革命に有害とし、叩(たた)き潰(つぶ)そうとした。生活単位は家族より組織で、食事も集団でさせ、親子も切り離した。寺院を豚小屋に変え、僧侶を強制還俗させるか殺すかした。でも結局は自らが家族、仏教の絆を乗り越えられなかった。

 ヌオン・チアの遺体は家族の住む西部の町パイリンに移され、壮麗な寺院で完全な仏式の葬儀が営まれた。彼自身、07年に拘束される前、仏教に帰依したと明言していた。

 他の元幹部の多くも晩年仏教を信仰し、成仏している。イエン・サリ(元副首相)、チリト(元社会問題相)夫妻などは生前、寺院に親類縁者の霊を弔う大仏塔を立てた。中央監獄の閻魔(えんま)大王(所長)だったカン・ケク・イウ(終身刑確定)は、96年に洗礼を受け敬虔(けいけん)なクリスチャンとなり、難民救援に励む“足長おじさん”に変身していた。結局、革命の夢の後は宗教に頼ったのである。

 ヌオン・チアの娘は地元紙に語った。「父は死の直前枕元の子や孫たちに、家族が結束し協力するよう言い残した。他人が何と言おうと良い父親だった。とても尊敬しています」

 98年にポル・ポトが死んだ時、彼の後妻と娘も言った。「優しい夫、父でした」

 ポル・ポトは、80年代半ば、政権崩壊後のゲリラ戦中に生まれた娘を溺愛した。97年に会見した記者は娘自慢をさんざん聞かされた。

 他の幹部も政権時代から自分の子供を優遇し、よい役職につけたりしたが、ヌオン・チアの母は格別だった。

 肝っ玉母さん型の強い女性で、同政権時代、西部の村に住んでいたが、息子に相当な影響力を行使した。反革命で仏教を深く信仰し続け、普通なら即虐殺なのに、彼女は毎日寺院に詣でる特権を認められていた。そのため村には4人の僧侶が残されていた。

 また、親しい夫婦が遠方に強制移住させられるのを阻止した。母の介入で、息子はほかにも同村民のため幾つか便宜を図った。

 98年に彼がゲリラ抵抗をやめて帰順した際、先(ま)ず望んだのが、家族の所へ行き謝罪することだった。

 要するに、国民の家族の絆をずたずたにしながら、革命の指導者たちは自分の家族の絆にはしっかり縛られていた。宗教もずたずたにしながら、自らはお釈迦様の手の平に乗り続けていた。脱家族も脱宗教もできなかった。

 人間生活の根源的なものを強制的に変えようとしてもダメだ。だから今、中国がウイグル族を弾圧し、イスラム教から共産党教に改宗させようとしても絶対成功しないだろう。

(元嘉悦大学教授)