ブッシュ父大統領の米国、勝ち誇らない外交の力

山田 寛

 先日94歳で死去したブッシュ父41代米大統領。その在任時に駐米記者だった私なりの思いをつづりたい。あの時代、米国は東西冷戦終結と湾岸戦争勝利で自信と誇りを取り戻したが、ブッシュ氏は誇っても勝ち誇らない外交大統領だった。そして、人間的、家族的温かさを、大統領と夫人が体現していた。

 当時、トランプ氏が大統領だったら、成果を最大限PRし続けただろう。だが、ブッシュ氏は拍子抜けするほど自己抑制的だった。

 1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した時も歓迎コメントは短く、記者団が「大喜びしている様に見えないが」と問い直したほど。ベルリン行きを勧めた側近にも言った。「壁は市民が崩した。我々が壊れた壁の上で踊るべきではないよ」

 翌12月、マルタ米ソ首脳会談で、冷戦終結が確定した時も控えめだった。共同宣言は出さない。共同会見で「冷戦は過去のもの」と言ったのはゴルバチョフ・ソ連共産党議長(その後大統領)で、ブッシュ氏は「新しい世界が来つつある」「議長の民主的改革に多大な敬意を抱いている」と、ソ連内のタカ派を刺激しないよう慎重な表現だった。

 91年12月、ゴルバチョフ大統領が辞任しソ連が崩壊した時、テレビ演説の中で冷戦勝利にやっと少し言及したが、同大統領の歴史的功績を心から称賛し、米ソ首脳間に友人関係を築き、脱冷戦に協力した年月への惜別感すらにじませた。ブッシュ氏の徒(いたずら)に勝ち誇らない気配り外交が、円滑な冷戦終結に大きな効力を発揮したのだった。

 91年初め、サダム・フセイン大統領のイラクがクウェートに軍事侵攻し、米軍などがこれを撃退した湾岸戦争の時は、人間味も示した。

 開戦前、イラク軍は強く米軍に数万の戦死者が出ると懸念され、米国は暗い空気だった。それでも派兵を決断しなければならない重圧。その苦悩を1回だけ記者団にも吐露した。同時に、イラク軍のクウェート市民、特に女性への暴虐行為の詳細を聞いて涙を浮かべたという。

 戦争は43日、うち地上戦は4日で勝敗が決し、ブッシュ大統領は早々と停戦を決めた。だが、これにはシュワルツコフ派遣軍総司令官も「早すぎる」と反対したという。米軍事専門家の多くも後に、「サダムを倒すべきだった」「イラク軍徹底破壊が必要だった」と批判した。でもブッシュ氏は、正義の戦いを標榜(ひょうぼう)し、イラクの国民や兵士にまで同情していた。「だから、無力化された敵兵を思う存分殺戮(さつりく)するターキーシュート(七面鳥撃ち)は、道義的に続けられなかったのだろう」とも評された。

 戦争直後、大統領支持率は一時90%にも上ったが、やがて経済が悪化、失業が増大した。92年大統領選で、反対陣営は「サダムはまだ職を持ってるぞ。君はどうかね」と国民に訴えた。敵への冷徹さ不足と経済不得意で、ブッシュ氏は再選を阻まれた。

 「アメリカのお母さん」的バーバラ夫人への国民の親近感は、近年のファーストレディー中でも1番と言われた。夫はブロッコリーが大嫌いで、「大統領だから、食べない自由があるはずだ」と言った。業者団体が反発し、ホワイトハウスの庭に沢山のブロッコリーを運び込んだ時、夫人は笑顔で「私は好きよ」と受け取り、雰囲気を一気に和らげた。

 ブッシュ氏はこんな言葉も口にした。「アズ・ウィーアーアメリカ」(我々はアメリカだから)。だから外国の状況も考えなければならない。

 トランプ経済取引大統領は「アメリカファースト」。強引と単独が有効なこともあろう。だが二つの言葉では、私は前者の方が好きだ。

(元嘉悦大学教授)