ずさんな『新沖縄戦』、両軍トップ戦死の日付に誤り

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (31)

 「集団自決」という言葉は伊佐(大田)良博氏が『鉄の暴風』の中で初めて使用したもので、それまで「玉砕」と当たり前のように使われていた。実際、今でも渡嘉敷島では「第1玉砕場」とか「第2玉砕場」という呼び名が使われている。ところが記念碑には「集団自決の碑」と刻まれ、「玉砕の碑」の表記は使いづらくなっている。筆者も今さら「玉砕」という言葉を使えず、本当に困っている。だから、カッコ付きの「集団自決」で前に進もう。

バックナー中将の慰霊碑

糸満市真栄里にあるバックナー中将の慰霊碑

 『新沖縄戦』はバックナー中将の戦死について、砲撃で死んだのか、日本兵の狙撃兵が撃ったのか、両論があるとしている。これについては筆者は徹底的に調査して、石原正一郎大尉の部隊の最後の砲弾が岩に当たり、破片が胸を突き、その10分後に死亡した感動的な物語を既に発表している。戦死の日時は6月18日午後1時25分だ。だが、吉浜忍編集長は「6月19日戦死」として記している。

 さらに、牛島満司令官と長勇参謀長が糸満市摩文仁の司令部壕で自決したのが6月23日となっている。これも筆者は徹底的に調査して、6月22日午前3時半ごろと証明した。6月22日を23日に変更したのは八原博道高級参謀だ。拙著『沖縄戦トップシークレット』を図書館で見るとよい。

 アメリカ側の沖縄戦は6月21日午後2時に戦闘終了が出され、翌22日に嘉手納で勝利式典が催された。その理由は、実に人間的なものだ。後任のスティルウェル大将は蒋介石の副官として中国軍を指揮していたが、蒋介石に嫌われ、ルーズベルト大統領から解任された。彼はマッカーサー元帥にバックナーを除し、自分を第10軍司令官に任命するよう企(たくら)んでいた。それが今、実現し、彼はサイパンから沖縄に飛んできた。しかし、その日は6月23日で、勝利式典に間に合わなかった。つまり、バックナー中将の部下としてはムザムザと後任のスティルウェルに勝利の栄誉を奪われるわけにはいかなかったのだ。

 ところが、全てのアメリカ兵や国民が驚いたことに、一億総玉砕を唱えていた大日本帝国は2発の原爆の後、ポツダム宣言を受け入れて降伏したのだ。第10軍を率いて日本上陸を期していたスティルウェル将軍は面白くない。マッカーサーが9月2日、ミズーリ号の艦上で日本の降伏調印式典を催すと、9月7日、嘉手納にも奄美や宮古、八重山の日本司令官を呼び寄せ、琉球列島の“降伏調印式”を催した。だが、それは様式が違っていた。それは“領土譲渡”文書だったのだ。このことは誰も知らない。