低下するロシア軍の人的能力
ロシア研究家 乾 一宇
徴兵人口・達成率が減少
費用かかる志願兵増加も困難
国際社会で、最近のロシアは、力による行動で、意図を達成しようとしていると見られている。その有力な手段であるロシア軍、その構成要素の人的能力を検討してみたい。
欧亜にまたがるロシアは、陸軍大国であった。しかも、欧米に対し経済力・技術力に劣るロシアは、ソ連時代を含め軍事行動において量を重視していた。「マスの戦法」は、これを象徴する言葉である。
量を示す兵力数は、安価な徴兵に依拠していた。また、徴兵により予備役を獲得でき、戦時、国土が広大なロシアが必要とする大兵力を動員できる利点もあった。
旧ソ連時代、兵役期間は、通常3年、海上勤務者4年、1967年の革命50周年に当たり、1年短縮してそれぞれ2年、3年とした。
アフガニスタンに侵攻していたソ連軍が撤退を開始した86年の総兵力は約280万人、徴兵対象者が194万人のところ徴兵数は93万人(48%弱)という西側の見積もりがある。
第1期プーチン政権末期の2007年に通常兵役18カ月、08年に1年に短縮した。期間短縮による兵員減を補うため、それまで25~30万人であった年間の徴兵者を08年に増加させ、翌09年には年間57万人という約2倍の徴兵規模になった。しかしこれは、国民の反発を招き、11年に減少、12年以降30万人程度になっている。
この徴兵者の減少を補うため、各種の方策を講じている。
重要な一つは、契約兵(志願制)の採用である。志願制は、科学技術の発達により、質の良い兵士を軍に導入するためにも必要であった。
ソ連時代、ペレストロイカ(改革)を掲げたゴルバチョフ大統領は、大幅な兵力削減を打ち出し50万人の削減を軍に課した。軍は軍改革と称し量より質を重視した軍事力整備の方針を掲げた。この時にとられた政策が志願制の嚆矢(こうし)となるものである。
当時、ペレストロイカの名の下、旧来の古いものは悪いとし、ソ連社会は、自己否定の道を進んでいた。共産党しかり、軍隊しかりである。大祖国戦争で勝利を収め、尊敬される存在であった軍隊は、他の機関同様、不要とはいわなくても、敬遠される存在になった。
93年の徴兵対象者は181万4000人であった。だが、召集されたのは、わずか41万6000人(23%)にすぎない。139万7000人(77%)が召集されていない。V・バルィニキン参謀本部第1次長(当時)によれば「ロシア軍の兵力は、92年5月現在280万人」であった。94年までに兵力を70万人削減する計画を発表したが、徴兵達成率の激減が理由であった。
そして浮上してきたのが、契約による方法(志願制)の本格的導入である。徴兵をしつつ志願制を併用する混合兵制である。徴兵人口、徴兵達成率の減少から、混合兵制に踏み切らざるを得なくなったのである。なお、紛争地域等への派遣は、志願兵を充当することが明らかにされていた。
志願制は本格的に93年から発足した。93年は志願兵10万人、95年末までに兵員の30%、2000年までに50%にする計画であった。93年の軍の充足率は60%であり、ロシアでは軍と呼ばれるには75%の充足率が必要と考えられており、深刻な人員不足の状況にあった。
03年秋、プーチン大統領は、軍の総兵力が275万人(93年)であったものを半分以下(116万人)に削減した、と述べた。10年間で約160万人の削減は例を見ないものである。そして、05年には100万人に縮小する計画を発表した。この間の徴兵者の数は35万~40万人で、顕著な減少は見られない。つまり、定員減により部隊の充足率向上を図ろうとしたのである。03年の徴兵率は10・3%で、不公平感が充満し、ゴルバチョフ時代以降の軍が魅力がない組織となり、国防意識は低下した状況である。
軍の縮小計画は遅れ、やっと12年にロシア軍の定数が100万人に定められた。
志願兵は、13年22万人、14年30万人となり、徴兵者とほぼ同数になった。17年に志願兵を42・5万にする計画のところ、17年および18年(予定)は38・8万人である(約4万人不足)。つまり、人件費のかかる志願兵は増加できない状況にある。徴兵も30万規模ということは、充足率が下がっていることを示している。
日本同様ロシアの人口は、国連統計では減少状態にあり、徴兵対象者数も増加を望めない。欧米の経済制裁や原油価格の低迷で国家予算は苦しく、軍事費も18年は減少しており、金のかかる志願兵の増加も困難で、武力行使も人的要素で制約される状況にある。
(いぬい・いちう)






