北極海温暖化とロシアの安全保障
ロシア研究家 乾 一宇
天然の障害・海氷が減少
原潜の聖域から「普通の海」に
北極海の温暖化にともない航路の利用や資源開発について、いろいろと議論が行われている。
ロシアは、北東航路がロシア沿岸を通ることから、帝政ロシア以来、大きな関心を持ってきた。特に、国連海洋法では沿岸海域は、領海および排他的経済水域として沿岸国の優位が認められている。北極海は、航路を含めてロシアに特権的地位があるかのように積極的に行動している。ただ、海洋法の解釈や運用には国によって相違がある。
ここでは、北極海の温暖化が、ロシアの安全保障にとってどのような影響をもたらすのかを考えてみたい。
不可能だった探知・攻撃
まず、現状では砕氷船がないと通年の航行は困難であり、ロシアは他国に先駆け原子力砕氷船を含め質・量ともに優れた砕氷船を有している。
コラ半島の不凍港セベルモルスクに司令部がある北洋艦隊は、冬季、港に閉じ込められることはなく、しかも敵に探知されずにバレンツ海に進出できる。これを活(い)かし同艦隊には、海氷下を潜行・航行できる潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)搭載原子力潜水艦を配備し、北極海を聖域(内海化)としてきた。
ロシアはともかく、それ以外の国にとって北極海は海氷のため、ほとんど行動できない海域であった。
聖域というが、海氷という天然の障害に護(まも)られた北極海は、ソ連・ロシアにとって、願ってもない価値あるものであった。これと同じくオホーツク海は、北方領土を含む千島列島により防護された海域で、SLBM搭載原子力潜水艦の聖域である。
これら2海域は、対米核兵器SLBMの発射海域として重要な地位にある。エリツィン政権時の経済混乱時の国防費大幅削減下でも、決して放棄しようとしなかった2海域だった。
特に、海氷に覆われた北極海は、温暖化が問題視されるまで、水上艦艇や航空機は海氷の下を航行するロシア潜水艦を探知・攻撃することはほとんど不可能だった。しかも、北極海の平均水深は1330㍍であり、潜水艦が自由に活動するには十分な深さがある。
また、北極海の水深と水温の関係は、潜水艦の主要センサーである音の伝搬に有利となる。ロシアの潜水艦にとって、敵の攻撃型潜水艦の監視がより容易となる。従って、北極海は戦略原潜の活動に適した海域で、聖域と称する所以(ゆえん)である。
ソ連の戦略原潜と北極海との関係を如実に示すのが、弾道ミサイル原潜タイフーン型である。この1番艦は1980年に進水したが、これは水中排水量4・8万㌧という巨大な潜水艦であった。設計も独特で、通常一つのみである耐圧殻を二つ平行に並べて、それぞれに原子炉を配置し、耐圧殻の間にミサイル発射筒を設置した。
そのため、高い抗堪性を有するとともに、強固なセイルと余裕のある浮力を保持することができ、厚さ2・5㍍の海氷を割って浮上することができた。タイフーン型は、北極海での作戦に特化した戦略原潜であった(現在はボレイ型)。
冷戦時代から北極海で戦略行動に従事するソ連原潜に対して、米海軍は攻撃型原潜を派遣してその探知・追尾に努めていた。このように北極海は、米ソの潜水艦が角逐する、まさに冷戦の最前線であった。
暴露される北方陸地部
海岸線が1・2万㌔に及ぶロシア北部は、海氷により護られてきた。ところが温暖化により天然の障害が減少、「普通の海」化し、北方からの脅威にさらされることになる。敵はイージス艦を北極海に配備でき、ロシア北部に対して巡航ミサイルの同時精密攻撃ができるとともに、航空機に支援された潜水艦攻撃も可能となる。
温暖化は、ロシア北方の陸地部を暴露させ、また聖域の喪失に繋(つな)がる、負の部分をもたらすことになる。
(いぬい・いちう)