退任した露大統領補佐官
日本対外文化協会理事 中澤 孝之
政権支えたイデオローグ
クリミア併合工作にも関与?
やや旧聞に属するが、ロシア大統領府は2月18日、プーチン大統領がウラジスラフ・スルコフ大統領補佐官を解任する大統領令に署名したと発表した。スルコフ氏は2013年9月20日から大統領補佐官を務め、プーチン体制を支えるイデオローグ(理論家)と目されていた人物。ペスコフ大統領報道官によれば、大統領とスルコフ氏との会談で自発的な退職願いが受理されたという。
政権中枢で要職を歴任
スルコフ氏といえば、長年プーチン大統領の仲間かつ政治顧問格。プーチン政権における「灰色の枢機卿」といわれ、06年2月22日に与党「統一ロシア」の集会での演説で初めて、ロシアの国益を優先する「伝統的なロシア民主政治」を、現代ロシアに当てはめて「主権民主主義」という言葉で呼称したことで注目を浴びた。
スルコフ氏の父親はチェチェン人の教員(アンダルベルク・ドゥダーエフ/1942~2014)、母親はロシア人(ジナイダ[ゾーヤ説も]・スルコワ/1936~)で、スルコフ氏自身の幼名はアスラムベク・ドゥダーエフであった。両親の離婚で母親に連れられて、64年9月21日に生まれて約5年間過ごしたチェチェン共和国からロシア共和国(当時)のリペツクに移住し、姓名もロシア風のウラジスラフ・ユリエビッチ・スルコフに改名した。同地でロシア正教の洗礼を受けた。
公式の履歴によれば、83年から2年間スルコフ氏はハンガリー駐在の砲兵隊に所属していたとされるが、セルゲイ・イワノフ元国防相が2006年テレビ・インタビューで明らかにしたところでは、スルコフ氏はこの時期、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)に勤務していたという。
長じて、多数の著名な外交官を輩出することで有名なモスクワ国際関係大学(MGIMO)を卒業し、メナテップ銀行、アルファ銀行、公共テレビORTなどに務めた。その後、エリツィン政権末期の1999年8月、プーチン氏が当時のエリツィン大統領によって第1副首相、首相に任命される直前、大統領府補佐官、次いで副長官のポストに就いて、政権中枢に足場を築いた。それ以来、今日まで約20年、大統領府長官、副首相などの要職を歴任した。英語に堪能といわれる。
また、スルコフ氏は大統領府副長官時代(1999~2011)、大統領への忠誠を誓う新しい官製青少年組織「ナーシ(友軍)」とクレムリンとの関係を強化したことでも知られる。13年以降特に、スルコフ氏のクレムリンでの役割の一つは、アブハジア、南オセチア問題に加えて、ウクライナ問題への対策であった。
ロシアのクリミア併合工作にスルコフ氏が実際どのように関わったか同氏の具体的な動向は明らかでないが、14年3月16日のクリミア自治共和国およびセバストポリ特別市の住民によるロシアへの帰属を問う住民投票で97・47%の「帰属支持」が明らかになった翌17日、スルコフ氏はオバマ米政権によって、米国入国禁止と在米資産凍結の制裁を受けた11人のうちに加えられた。
これを聞いたスルコフ氏は「米国への唯一の関心は、トゥパック・シャクール(米国のラッパー兼俳優)やアレン・ギンズバーグ(ビート詩人)、ジャクソン・ポロック(抽象表現主義の代表的画家)であって、彼らの仕事に接するのにビザ(査証)は不要だ」と語ったといわれる。
去就が注目される重鎮
いずれにせよ、スルコフ氏はまだ55歳と若いが、エリツィン時代から今日までのクレムリンにおける経験によりロシア政界では既に重鎮であり、その発言、去就は終始、注目の的であった。「彼のような有能な人物ならば、容易に別の職務を見つけるだろう」(ペスコフ報道官)と言われるスルコフ氏だが、新しい職場は、3月初め現在、明らかでない。
(なかざわ・たかゆき)