ミシュスチンとは何者か

日本対外文化協会理事 中澤 孝之

税務畑を歩いた露新首相
経済低迷脱却へ手腕を期待?

中澤 孝之

日本対外文化協会理事 中澤 孝之

 ロシア大統領プーチンは年明けの15日、年次報告書演説の後、電撃的に首相メドベージェフを解任し、後任に連邦税務局長官ミハイル・ミシュスチンを起用した。税収強化によって経済の低迷脱却につなげる手腕が期待されたとの見方が強い。しかし、ミシュスチンは政治的野心とは無関係のテクノクラート(技術系出身の官僚)であって、政界では知名度が低かった。

 かつて1999年8月、エリツィン(大統領)によってプーチン(連邦保安庁長官兼安全保障会議書記)が第1副首相、首相と続けて指名されたとき「クトー・プーチン(プーチンとは何者だ)?」といわれたものだが、ほぼ同じ現象が起きた。プーチンによるミシュスチン首相指名の翌日、下院で承認投票が行われたが、反対票はなく、賛成383票(85・1%)、棄権41票(9・1%)、無投票25(5・6%)で承認された。首相承認投票で反対がなかったのは初めてだった。

社交的活動的で多趣味

 「ミシュスチンとは何者だ?」という疑問に少しでも答えられる情報を紹介したい。出自について調べてみると、ミシュスチンは1966年3月3日、モスクワに近いロブニャという町で生まれた。父方の祖父はユダヤ系ロシア人で、彼の母親は民族的にはアルメニア人。アルメニア共和国のコタイク地方メグラゾール村にルーツを持つといわれる。ただし、2月初め現在、ロシアの公式プロフィールにこうした血統に関する記述はない。

 89年に、30年創設の由緒あるモスクワ工作機械・器具大学(通称「スタンキン」)、現在のモスクワ国立工学大学(MGTU)を卒業。元級友たちの回想によれば、「彼は社交的で、自分を中心に社会生活が回っているような男だった」「友達が多くて、集団の一員であることを常に好んでいた」という。92年公的非営利団体「インタナショナル・コンピューター・クラブ(ICC)」で働き、理事会を統率した。98年にロシア連邦税務局に入局し、2004年まで税務局次席として勤務。08年に公務員を退職、投資ビジネスを始めた。09年2月に大統領の人事リスト入りし、10年連邦税務局長官に任命された。

 ミシュスチンの趣味は、アイスホッケーで、自身も防具に身を固め、スティックを握ってアイスホッケーに興じ、アイスホッケー・クラブで広い人脈をつくった。ある投資会社CEO(最高経営責任者)の知人は「彼はとても運動神経がある男というわけではない。やや太りぎみだ。だが、とにかく前へ進み続けていた。ガッツがある男だ」と評した。

 07年にミシュスチンは、訪日の経験もある対外情報庁長官セルゲイ・ナルイシキンら政界のエスタブリッシュメントも交じるアイスホッケーのエキシビション試合を開催した。4年後にはプーチンが創設させた公式リーグ「ナイト・ホッケー・リーグ」の先駆けであった。国防相セルゲイ・ショイグも参戦したことがある。アイスホッケーといえば、プーチンが柔道と並んで得意のスポーツの一つだ。

 ミシュスチンはピアノの演奏も得意だという。サングラスを掛け、独特のしわがれ声で口を曲げて歌うジョージア出身の現代ロシア・ポップスの中年人気歌手グリゴリー・レプスのヒット曲「本当の女」(11年)、「燃えかす」(16年)の作詞も手掛けた。活動的で多趣味なところが、プーチンのお眼鏡に適ったのではなかろうか。

初代財務相と密な関係

 ミシュスチンは1990年代、とりわけ一人の政府高官と密接な関係になった。ロシア初の財務相ボリス・フョードロフ(58~2008)だ。98年にミシュスチンを初めて政府のポスト(情報システム担当補佐官)に起用したのは、同年5月、連邦税務局長官に就任したフョードロフだった。ある元財務次官は「ミシュスチンがフョードロフと親密で、子分的な存在だったことは秘密でも何でもない」と評した。ミシュスチンが首相にまで上り詰めたのは、フョードロフの支援があってこそ、だったかもしれない。(敬称略)

(なかざわ・たかゆき)