バックナー中将の戦死、最後まで前線で兵士鼓舞
上原 正稔 (32)
筆者はこの連載の冒頭で「最も醜いはずの戦争の中に、最も美しい物語が潜んでいる」と書いた。今回はその一つを紹介しよう。1945年6月18日、南部前線視察の日だ。バックナー中将の部下らは前線視察は危険だからと忠告したが、将軍はいつものように「部下の兵士らが前線で戦っているのに将軍の私が逃げるわけにはいくまい」と忠告を一蹴した。将軍は前線視察がどれだけ兵士の士気を鼓舞するか、よく知っていたから、しばしば前線に出ていた。
昼ごろ、将軍の一行が真栄里の丘陵に近づき、将軍が車を降り、山を登り始めると、第8海兵連隊の兵士から歓声が上がった。「南部万歳、バックナー将軍万歳」。彼らは知っていたのだ。バックナー・ジュニア将軍がケンタッキー州出身で、父のバックナー将軍が名誉の敗戦でケンタッキー出身の兵士の命を救い、後に州知事に選出されたことを。
バックナー・ジュニアは笑顔を絶やさず兵士一人ひとりに話し掛け、午後1時ごろ、真栄里と真壁の中間の丘陵の最先端に出た。高さ数メートルの断崖から四方全てが見渡せた。ということは敵の日本軍からも丸見えだった。断崖の東端にはバックナー将軍、ウォラス大佐ら4人が立っているだけだった。
1時10分ごろ、突然、砲弾が将軍の目の前の岩に当たり、破片がその胸を直撃した。そばにいた3人の第8連隊の指揮官らも一瞬のうちに吹き飛ばされた。ウォラス大佐はフラフラ立ち上がると、将軍を捜した。指揮官らは、皆大したけがはなかった。だが、バックナー将軍は仰向けに倒れ、血だらけだった。目は真っ赤に充血し、口からも出血し、胸からドクドク血が流れている。だが、将軍は意識があった。
ウォラス大佐が近づくと、絞り出すような声で言った。「ミンナ、ブジカ」。ウォラス大佐は知っていた。将軍は助からない。だが、将軍は「オコシテクレ」と右手を差し出している。すぐに海軍の医師がやって来たが、手が付けられない。将軍は右手を上げたまま、立ち上がろうともがく。その時、サーキシアン2等兵が将軍の手を握り、涙ながらに祈るように言った。「将軍、故郷に帰るんですよ」と同じ言葉を何度も何度も繰り返した。将軍は海兵隊の2等兵の手を握ったまま最期を迎えた。
その場面をじっと見ていたヘイリー海兵隊中尉は後に述懐した。「私はバックナー将軍が最後の最後まで自分が司令官であることを認識し、立ち上がろうとする姿に感動した。私はこれまで多くの部下の死に直面しても涙を流さなかった。だが、私はこの時、大きな感動で声を出して泣いた。不思議な満足感があった」