嘘を事実認定する新県史 大田元知事、投降日を捏造
上原 正稔 (30)
昨年3月、沖縄県は県史『新沖縄戦』を発行した。執筆者は吉浜忍沖縄国際大学教授(今年引退)の指揮下に37人いるが、本の内容は実に杜撰(ずさん)なものだ。
吉浜氏は「沖縄戦記録・研究の歩み」の中で、軍人・古川成美氏の『沖縄の最後』(1947年)が沖縄戦記の嚆矢(こうし)だとしているが、古川成美とは実は第32軍高級参謀・八原博道氏の仮名であることを知らないのだ。そして、「『鉄の暴風』が戦場での住民の行動を描いた沖縄戦記の嚆矢である」とだけ記して、「集団自決」の問題が『鉄の暴風』から始まったことには全く触れていない。ただ、関東学院大学の林博史教授が「強制された『集団自決』『強制集団死』」の項で、「鉄の暴風の中ですでに渡嘉敷島と座間味島で戦隊長が自決を命令したことが述べられており、援護法の適用を受けるために自決命令を捏造(ねつぞう)したという説はまったく成りたたない」と記している。これについてはこれまでかなり詳しく述べてきたが、これから徹底的に論破することにしよう。
吉浜氏は遠藤幸三著『青年医学徒の沖縄戦回想記』が2000年に刊行されたことを述べているが、遠藤氏は琉大教授時代の大田昌秀元沖縄県知事に面会している。その著書で、彼が建設した東風平(こちんだ)村の小城の病院壕を捜し当て、そこに十数人の日本軍将校と兵士らの中に大田昌秀学徒兵と会い、9月16日に一緒に米軍に投降した、と記している。そして戦後、琉大教授の大田氏に2度会っているのだ。拙著『G2 アメリカ軍戦時記録』にも、9月16日に東風平で大田氏らが投降する記録が載っている。しかも、彼と外間守善氏らが出版した『沖縄学徒隊』(1953年)にも9月16日に投降したと記されている。
しかしながら、大田氏はその後9月23日まで摩文仁(まぶに)(糸満市)の崖に居て、「九死に一生を得た」と悲劇の主人公に扮(ふん)している始末だ。今では「大田昌秀氏は10月23日、摩文仁で投降した」というとんでもない嘘(うそ)が真実となっている。
よく、兵隊がいない所で「集団自決」はないという言説を見聞きする。それは明らかに嘘だ。阿嘉島を見よう。阿嘉島の野田毅彦戦隊長は拙著『沖縄戦トップシークレット』の第1話「戦いの島、神の島、祈りの島」の主人公の一人なのだ。彼は軍律に厳しく、住民からも兵士からも恐れられ、嫌われ者だった。筆者は彼に面会して話を聞いた。
阿嘉島では「集団自決」はなかった。しかしながら、8月下旬、投降すると、朝鮮人軍夫から毎晩のように制裁を受けたと話した。彼は第32軍本部から慰安婦7人が送られてくると、「けしからん」と直ちに送り返したのだ。沖縄では唯一無二の出来事だった。