歴史歪めた歴代知事の責任、「集団自決」に無知な翁長氏
上原 正稔 (29)
第1次世界大戦が終わり、戦後処理が始まった時、日米軍縮会議が開かれ、「琉球」をどうするか議題に上がった。ドイツ領であった南洋諸島が日本の「管轄下」に置かれたことはよく知られているが、「琉球」のことは誰も知らない。
1921年のニューヨーク・タイムズを探してみると、あった。条約締結の記事の中に「琉球諸島の奄美の海軍基地建設を中止し、沖縄島にも基地建設をしない」という条項が入っていた。しかも、条項の中で琉球はLoo-Choo(ルーチュー)と綴(つづ)られているではないか。これはあのバジル・ホールの航海記の『大琉球 Great Loo-Choo』をアメリカ側の交渉者が読んでいたことを如実に示している。
筆者はそれから「大琉球」に関する文献を読みあさり、82年に「大琉球発見」という連載を琉球新報で発表した。それが、筆者の「作家」としての原点だった。ともあれ、20年代から30年代にかけて、奄美と沖縄に基地がなかった理由が「日米軍縮条約」にあることが明らかになったのである。
本題に戻ろう。ここまで折に触れて、昨年発行された『沖縄県史(各論編6)沖縄戦』(以下、県史新沖縄戦)を批判してきた。より詳しく検証しよう。
71年から74年にかけて県史第9巻沖縄戦記録(1)と(2)が出版された。記録(1)では先達の星雅彦氏らが膨大な録音テープを起こし、大事業を達成した。しかしながら、記録(2)は頑なに「集団自決」の軍命を信じた石原昌家、安仁屋政昭の両氏や某共産党員らによって「真実」から遠いものになってしまった。
筆者はこれまで、質、量とも最大の数の戦記を沖縄の新聞で発表してきたが、県史新沖縄戦には筆者の研究成果は全く見られない。筆者はここでも「抹殺」されている。その理由は、この物語を注意深く読んでいる読者は既にご存じであろう。これから、この県史の嘘(うそ)や偽善、そして“犯罪”を暴くことにしよう。
まず、この新県史の冒頭で翁長雄志知事(当時)が発刊の言葉を述べている。どこの県でも同じだろうが、「平和の創造への一助となることを願っています」という言葉はむなしく響く。彼は沖縄戦、特に「集団自決」については全く無知なのだ。大田昌秀氏や翁長氏が死去すると「神様」扱いされ、2人を非難することはタブーになっている。
筆者は「沖縄戦」を通して2人が犯した犯罪をこれから徹底的に暴いていこうと思う。死者を尊ぶのは当たり前のことだが、知事や政治家の責任は生死にかかわらず、追及されなければならないのだ。それが真実を発掘し、真実を追求する筆者の仕事だ。






