証言は金城牧師の後知恵、全国民に責任なすりつけ
上原 正稔 (26)
金城重明牧師の「家族殺し」の初告白は続く。
<父もその場で死んだ。愛情と殺意が入れ替わり、人間否定に変質して行った(原文のママ)。敵に捕らえられて惨殺されるよりも、自らの手によって自らの命を断つことが願わしいと思ったからである。(中略)私達兄弟が、いよいよ自らの命を断とうとした瞬間、一人の少年が近づいて来て誘うように言った。「どうせ死ぬのだから、米軍にきり込んで最期を遂げようではないか」と。その時私共三人は、他に小学生二人を伴い、自分達が最後の生き残りだと思いつつ、より恐ろしい死でしかないきり込みへと自決場をあとに残した。しかし、最初に出会ったのは、皮肉にも日本軍であった。>
これが金城牧師が初めて琉球新報上で発表した告白の冒頭部分だ。「父も(自決現場で)死んだ」と言いながら、後の証言では「父は目が悪くて、現場に向かう途中ではぐれて行方不明になった」と述べ、「軍国主義的異常信仰」が後に「生きて捕虜の辱めを受けず」という戦陣訓に変わり、「最初に出会ったのが、皮肉にも日本軍であった」のが、後に、「住民は、村長の近くに集められ、軍からの北山への集結が命ぜられた村長は軍から自決命令が出たからと天皇陛下万歳を唱えた。(中略)村長が独断で自決命令を出すことはありえない。軍から自決命令が出たからだ」という証言に変節している。
金城牧師の証言は全てが後知恵と言ってよい。曽野綾子氏が『ある神話の背景』で金城牧師の「胡散(うさん)臭さ」を直感して、彼との対話を録音した、と記しているが、全く図星だった。
金城牧師の手記「渡嘉敷島の集団自決と戦争責任の意味するもの」に戻ろう。金城牧師は唐突に戦争責任を持ち出すのだ。
<これまでのマスコミでは赤松氏が自決命令を下したかどうかが焦点になっていた。即ち命令の事実確認が行われてきた。(中略)戦争責任が赤松氏の個人的追及と言う形でなされるならば、戦争責任の深い意味が忘れられたことになる。軍部の責任者として赤松氏は問われる。同時にあらゆる軍人、そして日本国民一人びとりが問われなければならない。戦争に巻き込まれた者は一人残らず加害者であり被害者なのである。>
戦争は全国民の責任だと金城牧師は宣言している。つまり、一億総懺悔(ざんげ)せよ、と主張している。自分の責任を回避しているのだ。






