親族「殺した」金城牧師

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (25)

沈黙破った隠れた主人公

 前回、沖縄の新聞やテレビで乱用されている「集団自決」「強制集団死」という並列表記の起源が伊佐良博氏の『鉄の暴風』で使われた造語にあることを記し、安仁屋政昭、石原昌家、林博史の3氏の責任を指摘した。

星雅彦氏

沖縄戦の住民聞き取り調査をした星雅彦氏

 ここからは、渡嘉敷村と座間味村でいったい何が起きたのか検証する。

 <1970年3月26日那覇空港。「何をしにノコノコ出てきたんだ!今ごろになって!」「お前は300人以上の沖縄県民を殺したんだぞ!土下座してあやまれ」怒号のアラシが赤松嘉次を襲った。>

 赤松氏は翌年の月刊誌『潮』11月号で「私は自決を命令していない」と題する手記を発表した。その衝撃的な内容は後で紹介するが、戦時中の部下15人と共に渡嘉敷島を招待訪問することになっていた赤松氏にとって異様な出迎えとなり、その後の人生にも大転換をもたらすことになった。

 一方、沖縄出身の作家で詩人の星雅彦氏も気狂いじみた大混乱の現場を全て目撃していた。星氏は『沖縄県史第9巻(沖縄戦①)』を名嘉正八郎氏、宮城聡氏らと共に、全島ほとんどの地域の戦地で住民の話をテープに録音し、それを起こして膨大な記録を残す、という人間離れした仕事をしていた。そして彼は、前記『潮』で「集団自決を追って」と題する立派な記録文学を発表していた。

 そして、もう一人、「集団自決」の隠れた主人公が長い沈黙を破って琉球新報の学芸欄に姿を見せたのだ。

 その人物の名は金城重明。日本キリスト教団首里教会牧師だ。1970年4月15日、金城牧師は「渡嘉敷島の集団自決と戦争責任の意味するもの」と題する一編をおそらく初めて投稿することになった。筆者の知る限り、金城牧師が「集団自決」について他に語ったことはない。それを紹介しよう。

 <戦争の痛ましい傷あとが忘れ去られようとしている時、沖縄戦の悲劇の焦点である渡嘉敷島の集団自決の悪夢が、赤松元大尉の来島によって再び記憶によみがえってきた。島民329人の自決は、米軍の沖縄本島上陸に先立つこと4日、昭和20年3月28日、最も悲惨な方法で愛し合う肉親の者同士が死の道を選んだ。ひめゆりの塔にこめられている悲話もこの悲惨事には及ばない。私は兄と2人で母や弟妹を大きな悲嘆の声を出しながら、言葉には表現できない方法で殺した。>

 金城氏はここで初めて親族を「殺した」ことを明らかにしたのだ。