立ちはだかる反戦平和、地元紙がメモリアル構想報道

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (15)

 1990年にはロジャー・ピノー氏から海軍兵士戦死者約5000人の名簿が送られてきた。6月21日、慰霊の日の前に沖縄戦メモリアル建立の構想を友人たちと一緒に記者会見で発表した。翌日、まず琉球新報が「沖縄戦永遠に記録―全戦没者名も調査―メモリアル運動展開へ」という見出しで報道した。

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刻銘碑前で献花の用意をする米兵

 「この運動は作家の上原正稔氏らが発起人。(中略)メモリアル運動は沖縄戦メモリアルの建立と沖縄戦ライブラリーの2計画。沖縄戦メモリアルは、沖縄戦で亡くなった日米両軍の兵士、一般住民、朝鮮人軍夫などすべての犠牲者の名前を調べあげ岩壁に刻み込み、その名を残そうというもの。沖縄戦ライブラリーは米軍の公文書館など各地に残されている沖縄戦資料、写真、フィルムを収集し、一般に提供するというもの」

 6月26日の沖縄タイムスは「沖縄戦メモリアル運動―上原氏らが呼び掛け」と写真付きで報道した。

 ここで読者の皆さんに指摘しておきたいのは、沖縄の新聞が“沖縄戦メモリアル運動”を報道した6月には、知事は西銘順治氏であり、その年の10月の知事選挙で大田昌秀氏が西銘氏を破って知事になったことだ。

 敵も味方も、兵士も住民も、大人も子供も、全ての戦没者の氏名を一つの記念碑に刻むという発想は1フィート運動の比ではなかった。早速、具志頭村(現在の八重瀬町)から電話が入った。上原元一という役場の課長だった。彼の話では、具志頭村は陸の孤島でこれといった観光施設もない。つい先日、「平和の壁」構想を県に出したばかりだ、と言う。しかし、そこには沖縄戦の戦没者の名を刻むという発想が欠けていた。「沖縄戦メモリアル建立の構想は素晴らしい。土地は村が提供するので、ぜひ具志頭村に建立してくれないか」

 こうして、具志頭村に沖縄戦メモリアルを建立することが決まった。「沖縄戦ライブラリー」は別の市町村でよい。これが後に県公文書館(南風原町)になったことを知る人はほとんどいない。

 ともかく、全ての沖縄戦戦没者の氏名を刻印するメモリアルの場所は決まった。全琉球、全国、いや、米国民からも絶大な賛同を得られることは間違いない。

 筆者は15歳以上、つまり高校生から大学生が集めた戦没者名簿が正しいかどうか、チェックする組織の編成を始めなければならない。“反戦平和運動家”という腐り切った人間たちに奪われた、あの1フィート運動の二の舞いを演じてはならない。しかしながら、またしても、“公権力”と反戦平和の恐るべき壁が立ちはだかったのだ。