名簿探しに奔走、敵味方なく戦没者を刻銘
上原 正稔 (14)
筆者は自分が始めた1フィート運動という「世のため人のために役立つ」仕事を奪われ、しばらく怒り心頭に発し、放心していた。振り返ってみると、平和運動家を表明していた大田昌秀、石原昌家、安仁屋政昭、外間政彰(市立図書館長)らの諸氏は「寄付金を全島民から集め、世のため人のために役立つ仕事」をしたことがなかったのだ。だから、筆者らから仕事を奪っても良心が痛まないということだ。
筆者は作家活動を続けながら、1フィート運動より、「世のため人のために役立つ仕事」はないか、探していた。何度もワシントンDCの米公文書館に通う中で、一つの構想が浮かんできたのだ。
スミソニアン博物館の敷地内にベトナム・メモリアルがある。5万8000人のアメリカ兵犠牲者の氏名が刻銘されているのだ。だが、何十万というベトナム人犠牲者の氏名は全くない。これはフェアではない。世界を見ても自国民の犠牲者の氏名は記録、あるいは刻銘されているが、敵も味方も一緒に刻銘されたメモリアルは一つもない。
沖縄戦で亡くなった全ての人々の氏名を刻銘したメモリアル(記念碑)を建立しよう。沖縄の人々だけでなく、全国の人々が無条件に協力してくれるはずだ。
さらにアメリカの人々も全面的に応援してくれるはずだ。沖縄戦や大琉球の研究の過程で親しくなった歴史家ロジャー・ピノー氏が「これは素晴らしい仕事になるぞ」と喜んでくれた。
筆者は1986年「大琉球」の本を完成すると、「沖縄戦メモリアル」建立の計画を進めた。1フィート運動の失敗を繰り返してはならない。平和運動家を全て排除して事を進めるのだ。
筆者はその頃には、いかなる“平和”を唱える者も偽善者だと確信していた。ピノー、川平朝申、照屋義彦らの諸氏と10人ほどの委員を集めた。筆者が実行委員長となって、95年、すなわち沖縄戦50周年の慰霊の日に完成する計画だった。
一番の問題はどのように戦没者名を募るか、ということだ。アメリカ兵の沖縄戦戦没者名簿は米公文書館などで軍隊別に保存されているから、ピノー氏に一任すればよい。日本兵の戦没者名も厚生省や都道府県に協力を仰げばよい。
問題は沖縄だ。筆者も1フィート運動を始めるまで、沖縄戦に全く関心がなかった。若者たちは沖縄戦を知るきっかけを与えられていない。高校生、大学生たちが自分の家族の沖縄戦の体験を聞き、消息を確認することから始めればよいのだ。
こうして、沖縄戦メモリアル建立のアイデアが一つ一つ固まっていった。