自決者は“戦争協力者”、「援護法」を意識した母

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (10)

 「援護法とのはざまで」の小見出しを付けた『母の遺言』を紹介しよう。

 <母との話は1950年代にさかのぼった。沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座間味村では1953年から戦没者遺族の調査が着手されていたが、それから3年後の1956年村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。この援護法は、軍人軍属を対象に適用されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。それを村当局は、隊長の命令で「自決」が行われており、亡くなった人は“戦争協力者”として、遺族に年金を支払うべきであると主張した、というのである。(中略)

600

宮城晴美氏が著した「母の遺したもの」の初版(左)と新版

 その「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人達を見殺しにするのか」という長老(古波蔵村長のこと)の怒りに屈してしまったようである。それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の個所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった。>

 続いて、「忠魂碑の前に」の小見出しの箇所だ。

 <1945年3月25日、3日前から続いた空襲に代わって島は艦砲射撃の轟音(ごうおん)に包み込まれる。そんな夜おそく、「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令の声が届いたのである。その前に母はこの伝令を含めた島の有力者4人とともに梅澤隊長に面会している。(中略)有力者の1人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最期のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。母は息も詰まらんばかりのショックを受けていた。

 そのとき、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた5人はそのまま壕に引き返した。(中略)

 翌日の3月26日、上陸した米軍を見た住民がパニックを起こして、家族同士の殺し合いが始まったのである。母と共に梅澤隊長のもとを引き揚げた4人全員が「集団自決」で亡くなってしまったため、戦後、母が“証言台”に立たされたのもやむを得ないことであった。>